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今朝、サイバー戦について書かれた朝刊を読んでいたら、子どもの頃、私は、(戦争ってヤダ、怖い)、ってことを、ものすごく思っていて、それがまた、普通だったらそんな年齢ではそんなこと考えないだろうってほど、その心配が、ときに、日常生活にまで浸食していたことを、ふと思い出しました。友人とたのしく遊んでる時に、ふと、こういう暮らしだって一瞬で壊れるんだ、と、思って暗~い気持ちになったり。
反戦教育に特に力をいれている小学校だったからかな。たくさん悲惨な話を聞き、怖い写真を見たり、ただ、空襲下を無力に逃げ回る話とか。なんか、こう、聞いていると、自分の存在感がおびやかされる感覚があったな。でもって、家で母に話すと、空襲警報が本当に怖かった話とか、同級生が焼夷弾の直撃を受けて亡くなった話とか聞かされて、ますます無力感を感じて、反戦教育の意図する「平和は大切」ということよりも、戦争になったらこどもの私はただ無力に逃げ回って死ぬんだ、という惨めさだけが、子ども心に残ったのでした。やれやれ。 以前、むらさきさんから教えてもらった、自分がコントロールできないことには興味を持たない、というイチローの言葉を、思い出したりしています。子どもは、(大人の世界には、大きな暴力がある、)ということを、あんまり小さいうちから知らなくてもいいのかもね。私のようなタチの子どももいるだろうし。 こんなことを書いていたら、昔観た灰谷健次郎原作の「太陽の子」の映画に、主人公のふうちゃんが沖縄戦の写真を小学校の先生に見せられて、ショックを受けて吐いてしまう場面があったことを思い出しました。 そういえば、私も、ふうちゃんと同じ年齢の頃に、たまたま観ていたドキュメンタリーで、ナチの収容所の、山のように積まれた子供の死体の写真をみてしまって、すごくショックを受けたことを思い出しました。 歴史を語り継ぐことが大事って、よく言われるけれど、本当にそうなのかなあ? 歴史と一緒に、民族の怨念が次の世代に受け継がれていくってこともあるんじゃないかな。 というか、正当性の名のもとに、結果として、その世代では昇華できなかった恐怖や怒りや悲しさを、次の世代を受け皿にして、注ぎ込んでしまっているってことは、あるんじゃないかなぁ。 ほんとうは聞きたくなかった、見たくなかったな。だって、わたし、すっごくこわかったんだもん。 そんなことを考えている朝です。 でもって、耕運機買ったわ。 今日試運転してみよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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