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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年07月18日
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カテゴリ:大名のお家騒動





2・
和霊騒動


伊達 秀宗(だて ひでむね)は、伊予宇和島藩の初代藩主。初代仙台藩伊達政宗の長男。母は側室・新造の方(異説あり)。異母弟に仙台藩二代藩主伊達忠宗がいる。


天正十九年(1591)9月25日、伊達政宗庶長子として陸奥国柴田郡村田城にて生まれる。幼名は兵五郎。この時点では、政宗の正室愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。文禄年(1594)、政宗に伴われて秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出される事になり、伏見城で養育された。


文禄四年(1595)七月に秀次事件が起こると、豊臣秀次と親密だった政宗もこの事件に連座し、隠居して家督を兵五郎に譲ることと伊達家の伊予への国替えを秀吉から命じられた。


結局は徳川家康の取りなしにより許されたが、八月二四日に在京の重臣十九名の連署による起請文提出を命じられ、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」旨を誓約させられている。


文禄五年(1596)五月九日、豊臣秀吉養子となり、秀吉のもとで元服し、偏諱を受けて秀宗と名乗った。従五位下侍従に叙位・任官され、豊臣姓も授かっている 。豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられた。秀吉死後の慶長年(1600)に五奉行田三成らが五大老徳川家に対して挙兵(関ヶ原の戦い)すると、三成方の宇喜多秀家の邸にて、対伊達政宗の人質となる。


慶長七年(1602)徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫(このとき、数え年で政宗三十六歳、愛姫三十五歳となっており、当時としてはかなりの高齢出産であった)との間に虎菊丸(のちの伊達忠宗)が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、慶長八年(1603)1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした 。


慶長十四年(1609)、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が慶長十六年(1611)12に江戸城元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外される事になった。


この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。


このため別家を興すことを父・政宗が考える。慶長十九年(1614)の大坂冬の陣には父と共に参陣し、初陣を飾る。戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島一〇万石を別家として嗣ぎ、同年十二月二五日にその初代藩主となった。家臣団の多くは政宗が伊達家中から選んだ者で、秀宗入部の際、57騎騎馬団のほか足軽、小者あわせ約千二百名がいたとされる。


重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から六万両の借財をした。元和年(1620)、家老山家公頼が対立していた桜田元親に襲撃されて一族皆殺しにあう。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。


さらに翌元和七年(1621)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。


政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。その後、秀宗は藩政に注力した。翌年の元和8年(1622)十二月、遠江守を叙任する。寛永年(1626)八月十九日には従四位下に昇位する。明暦年(1657)、世子の宗利に家督を譲って隠居した 。八月十六日には五男の宗純に伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となった。


明暦四年(1658)6月8日に江戸藩邸で死去 。享年六十八歳。死後の翌日、宮崎八郎兵衛・高島太郎衛門が、一月十八日に神尾勘解由、6月23日に渡辺藤左衛門がそれぞれ殉死した 。秀宗は宇和島藩祖であるが、宇和島では余り崇敬を集めておらず、宇和島市内には顕彰碑も銅像も無く、「秀宗公」と尊称する人もいない。


これは幕末維新期の藩主宗紀宗城が名君だったためにその陰にかすれたためとされている。ただし名君だったと伝わり、参勤交代の際に宇和島の帰国途中で海が荒れて船が転覆しそうになった時、秀宗だけが泰然自若、少しも騒がなかった。


あるいは豊臣秀頼と組み討ち遊びの時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し、直に踏まなかったので豊臣秀吉淀殿夫妻をはじめ豊臣家の面々は秀宗に大いに感心した、と伝わっている。


秀宗は支藩扱いされるのを嫌い、将軍徳川家光との御成之間で対面の際、異母弟忠宗より上座に着座して政宗の長男、仙台藩の風上に立つ事を示している 。秀宗は政宗に似て和歌に堪能だったと伝わる。


そして時代は流れて、幕末の朝廷および明治新政府で活躍した伊達宗城らの功績により、宇和島藩の藩主家は侯爵に列せられ、奥羽越列藩同盟に連座したため伯爵どまりとなった仙台藩藩主家を上回る家格として遇されることになった。






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最終更新日  2023年07月18日 11時37分36秒
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