「戊辰戦争の群」長州藩の動き
長州藩の動き 八月十八日の政変の後と同様に藩政を誤らせた正義派へ俗論党は反発を強めた。前回は萩から山口へ椋梨藤太、村岡伊右衛門ら俗論派が出てきて毛利登人、前田孫右衛門、周布政之助ら正義派を免職させたが、奇兵隊という武力を背景とした高杉晋作がひっくり返して、逆に坪井九右衛門は切腹させられた。今回は俗論党の影響下にある先鋒隊の壮士たちが続々と山口へ入った。 9月6日に吉川経幹が山口に入ると8日に奇兵隊を含む諸隊は経幹と接見、上申書を奉じ幕府への武備恭順を迫り、これに対抗して20日に萩藩士100名以上が山口に上った。 山口藩庁は暴発を避けるため城代の毛利将監、目付の村尾治兵衛から慰撫しようとしたが果たせず22日、萩側は経幹へ幕府への謝罪恭順を通すように迫った。経幹はこれを慰撫して藩内の騒動を収め、同日に敬親へ告げその場で城代と目付は経幹の労に謝したが、山口側は萩側の圧力を無視できなくなった。 24日、井上馨(聞多)は藩主父子へ君前会議において藩是を定めることを提言。井上は萩の強硬派はいざとなれば自らが代官をつとめる小郡の民兵を使って片付ける目算を立てていた。 25日、山口政事堂で君前会議が開かれ井上は熱弁をふるい、会議の最後に敬親は武備恭順を国是とすると言明して終わった。 しかし同日夜、井上は政事堂からの帰り道に袖解橋の手前で刺客に襲われ重傷を負い、周布も自殺、30日に加判の清水親知(清太郎)も知行地に戻り閉居し正義派は大打撃を受けた。同日、藩主父子の萩城帰還が決定した。 10月9日に毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太は謹慎。13日に山縣半蔵、小田村素太郎(後の楫取素彦)寺内暢蔵は罷免。17日に高杉晋作は政務役を罷免され24日に萩から脱走、29日に下関に入り11月1日に九州へ入り諸藩連合を説いたが失敗。福岡郊外の平尾山荘へ潜伏した。 19日に清水は加判を罷免・謹慎となり正義派は軒並み倒れ、24日に俗論党の首領である椋梨籐太が政務役に任命され俗論派政権が誕生した。15日、奇兵隊を含む諸隊は山口から五卿を奉じて長府に入った。その総員はおよそ750名だった。 22日、萩政庁は下関へ諸隊鎮撫掛の杉徳輔を、23日には粟屋親忠(帯刀)を送り込み、粟屋は長府藩に諸隊鎮撫を依託した。25日、長府藩の藩主である毛利元周は謝罪恭順を徹底させるため諸隊へ藩主父子への嘆願を封じさせた。諸隊は萩藩庁へ武備恭順、正義派の登用を嘆願したが無視され続けた。 元治の内乱と征長軍の解兵 12月8日、奇兵隊総督の赤禰武人は萩から長府へ帰り、萩政庁と諸隊の調和により事態を転回させる調和論<正邪混和説>を説いたが諸隊の多くは賛同せず、同日、奇兵隊の実権を握っていた軍監の山縣有朋は萩政庁へ反対の意見書を提出した。11月25日、九州から下関へ帰った高杉は長府で即時挙兵を説いたが、山縣を含めた諸隊は同調しなかった。 12月13日夜、高杉は諸隊の長官を説得したが、忠誠公勤皇事蹟には「悲憤慷慨の言を吐き、或は怒り、或いは泣て、長官等を感動せしめんと力めましたけれども、長官等は高杉の気焔に圧倒せられたるのみにて、誰れ一人として」決起する様子は見えなかったとある。 15日深夜、大雪の中、長府に集まった高杉と力士隊(総督は伊藤博文(俊輔))、遊撃隊(総督は河瀬真孝(石川小五郎))は功山寺に赴いて五卿に面会、その後下関に入った。功山寺挙兵および元治の内乱の始まりである。 翌16日、藩内クーデターの勃発に萩政庁は諸隊を敵として協力を禁じる布告を出した。12月18日、諸隊は伊佐へ出陣、萩藩庁は同日に毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太を含む7名を野山獄へ投獄し、翌19日に斬首(清水は6日後の25日に切腹)。両者の対立はようやく先鋭化した。高杉は三田尻で奪った軍艦を萩へ向かわせたが下関にいた。山縣有朋は諸隊より遅れて出発、剃髪した。融和論に静観の形で同調の姿勢を見せていた諸隊に裏切られた赤禰武人は下関を出奔した。 28日、下関の遊撃隊討伐を目的として萩を上発した討伐軍の先鋒は秋吉台の北東の盆地の絵堂に入った。台地南西の伊佐にいた諸隊は、年が明けた元治2年(1865年、慶応に改元)1月6日深夜に山道を越えて絵堂に入り討伐軍を襲撃、朝までに同地を占領した。諸隊は数で劣勢のため絵堂は放棄して南進、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出た。 討伐軍は秋吉台と権現山の間を通じる本道の大田街道、権現山東縁を流れる大田川沿いの谷間道(川上口)を南下すると予測した諸隊は本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣は御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道と川上口が合流する大田勘場(役所)に本陣を置きV路上に陣地を形成した。 10日、討伐軍は本道を攻めつつ、主力を川上口にまわした。奇兵隊の指揮官だった三好重臣(軍太郎)は敵の急襲に支えられず退却したが、本営の金麗社にいた山縣は狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み、左翼から敵を狙撃させた。