「傘連判状」十九、「一揆事件後の処理」
十九、「一揆事件後の処理」 大晦日の宝暦八年一二月三〇日には、藩主世子であった金森頼元が渋谷の祥雲寺に江戸詰めの家臣を集め、一同に離散を言い渡し、藩士は散り散りとなった。「今まで金森家に尽くしてもらいありがたく、藩主頼錦に代わりお詫びとお礼を申す。」「皆の者、一日も早く、立ち直り仕官の道を探してくれるよう」家臣らに深々と頭を下げて謝意と謝罪を述べた。 金森氏の家臣らは浪人となって、諸国に飛散してしていった。また宝暦八年一二月二六日には江戸から郡上へ飛脚が送られ、大晦日の宝暦八年一二月三〇日夜、郡上に到着した。年も押し詰まった大晦日の夜にお家断絶を知らされた金森藩士の動揺は大きく、大騒ぎとなった。「我々はどうすれば良いのか」「何故だ」と絶句する家臣たちに「我ら藩士ももっと上手くやっておればここまで傷が深くはならなかった」今更悔やんでもどうなるわけでもない。藩士らは明日から路頭に迷う浪人の身になって、民衆の気持ちが理解できたのかもしれない。 宝暦九年一月五日には側用人の三浦連が江戸からやって来た。三浦は藩士全員を集めてこれまでの経緯を説明した上で、金森頼元の命としていたずらに動揺しないよう、そして金森家の所有する家宝などを全て売却し、売却益を藩士などに分配するよう指示した。 改易された金森頼錦の後釜として、宝暦八年一二月二七日、幕府より丹後国宮津藩の青山幸道が新たな郡上藩主として転封を命じられた。※青山幸道・享保十年、宮津藩初代藩主・青山幸秀の三男として誕生。庶子であったが、 同年に弟で嫡男・幸篤が病弱を理由で廃嫡されたため、延享元年五月に世子となった。 同年十月晦日、父の死去により跡を継ぎ宮津藩主となる。同年一二月一六日、従五位下 大膳亮に叙任。宝暦八年一二月二七日に美濃郡上藩に移封される。宝暦十年六月三 日、大蔵少輔に遷任。宝暦一三年一二月、大和守に転任。藩政においては、前藩主の 金森氏による悪政を正すため、検地や法令制定などを行なって、藩政の安定化を図っ た。しかし安永二年、飛騨国で大原騒動が起こると、厳しく弾圧してしまったために領民 の恨みを買ったといわれている。 青山氏が郡上に入るまでの間、近江国信楽代官の多羅尾四郎左衛門が郡上を一時支配することになり、宝暦九年二月七日、多羅尾四郎左衛門一行は郡上に到着した。 多羅尾四郎左衛門の郡上到着後、郡上八幡城引き渡しの準備が急いで進められた。宝暦九年二月、幕府からは引き渡しを受けるための人員が派遣された。 宝暦九年三月一日には幕府からの使いが郡上に到着し、主に郡上領内の治安に関する高札を立て、更に旧金森家家臣を集め、今後三〇日以内に立ち退きを行うよう命じ、もし事情により三〇日間に立ち退くのが困難な場合には借宅証文を渡すと伝えた。 郡上八幡城の接収と青山氏入部までの在番は、岩村藩藩主松平乗薀が命じられた。宝暦九年三月一日には岩村藩の先遣隊が郡上に到着し始め、城受け取りの準備を開始した。 松平乗薀は宝暦九年三月一二日郡上に到着した。翌宝暦九年三月一三日午前六時頃、松平乗薀は多羅尾四郎左衛門らとともに郡上八幡城に入城し、城引き渡しを受けた。旧金森家家臣らは泣く泣く城を後にし、離散していった。「この城とも今日限りか」名残を惜しむ藩士らにはうっすらと涙さえ浮かんで見えた。 金森家改易の結果、数百人の郡上藩士が浪人となった。彼らは金森浪人と呼ばれ、一部は金森家の後に郡上藩にやって来た青山家に仕えることが出来たが、郡上で町人となった者も多く、そして数多くの金森浪人が郡上を離れ他国へと流れていった。 宝暦九年四月には青山氏の先遣隊が郡上に入った五月末から六月にかけて青山家家臣が続々と郡上に到着し、宝暦九年六月一七日、城の引き渡しが行われた。 郡上に入った青山氏に対して、幕府は切添田畑についての調査を行うよう命じた。これは郡上一揆の判決で、農民が一揆を起こした主因が切添田畑を隠すことが目的であったと断定したことによるもので、藩は郡上郡内の各村に調査が命じられた。 宝暦一〇年六月の各村からの届出によれば、郡上郡内全体で三三三石あまり、郡上郡内全体の石高の約一,五パーセントに当たる切添田畑が明らかとなった。 また郡上一揆最大の闘争目標であった検見法についても、宝暦九年一〇月には正式に採用が言い渡されている。そして農民には厳しく質素倹約を命じて年貢の確保を図った。 また村々の庄屋の上に数人の大庄屋を置き、村で発生した問題はまず庄屋が解決を図り、それでも解決が困難な場合には大庄屋が、更に解決困難な問題は藩が解決に乗り出すことにするなど、農村支配体制の強化を図った。「良いか、前者の失敗の二の舞を踏むまい」と各自戒めて、郡上と言う土地柄の把握に懸命だった。 農業生産性が高いとはいえない郡上藩では、青山氏の時代も厳しい財政難が続くことになる。 しかし農民たちの願いに応じて村ごとに三ヵ年限定の定免法採用をしばしば認め、飢饉時には農民に対する支援も行った。「確かに一揆後の、荒廃した村々には救済はあった。」 また歴代藩主は領内を巡検して農村事情を確認するなど、厳しい財政状況に悩ませられながらも、青山氏はきめ細かい農村への配慮を欠かさなかった。青山家の農民支配は厳しい統制を行う反面、農民たちに対する配慮も見られた。 また青山氏が郡上に転封となった郡上一揆直後、領内は立者、寝者の厳しい対立や、一揆によってお家断絶となった旧金森家家臣である金森浪人の存在など様々な反目が渦巻いていた。 年貢徴収法改正をきっかけとして郡上一揆を起こし、藩と長期間の抗争を続けた郡上の農民たちは、藩や幕府を倒すなどといった革命を起こそうとしたわけではなく、これまでの定免法による年貢徴収法の堅持を願った。 いわば現状維持を要求として掲げた闘争をおこなった。郡上農民たちは「仏神三宝のお恵み」を心の支えとし、「先規の通り」を願っており、基本的には素朴な宗教心に支えられた現状維持を願う保守的な闘争であった。「藩側の過剰な反応も事態を複雑にした」と振り返る者もあった。 このような一揆勢の思想は、お上の慈悲を願う形を取りつつ、仁政を行うことを為政者に要求する一揆の基本的な闘争方針へと繋がった。 その一方で、郡上一揆は単に保守的な現状維持を目指した闘争という視点では括りきれない複雑な一面を持っている。 一揆が発生した宝暦期は、商品経済の発達や幕府や諸藩による年貢増徴策が強行された影響で、豊かな農民と貧農との格差が拡大していた。 郡上一揆では豪農や庄屋などという豊かな農民たちの多くが検見法を受け入れていくのに対して、貧しい農民たちの多くは定免法の現状維持を願うとともに、水呑百姓が寺社奉行の高札を引き抜いたりして態度を硬化しすぎた。 評定所の吟味終盤で「公儀を恐れず」という発言が飛び出したり、更には一揆首謀者三名が獄門にされる際、親族が役人に対して不敵な発言をするなど横柄な態度が対立を深めた。 その上に一揆に参加しながら硬直した社会体制に対する一種の異議申し立てを顕在化させた。 これは講談師馬場文耕が幕閣中枢まで処罰が及んだ郡上一揆の裁判を題材とした講談を発表し、逮捕されて取調べ中も幕府政治批判を繰り返した結果、獄門に処せられたこととともに、これまでの社会秩序に綻びが見え出した現れと考えられる。「幕府の威信と面子を潰されるわけには行かない」幕臣はそう言った。「幕府のけじめはつける」処罰を見ても農民のへの見せつけがあった。 また郡上一揆は当初一揆に参加していた庄屋層の脱落、藩側の度重なる弾圧、そして反一揆勢である寝者との対立などを乗り越え、足かけ五年に及ぶ長期間に渡る闘争を継続した点も大きな特徴といえる。 多くの困難を抱えながら闘争を継続できたのは、帳元らを中心としたしっかりとした組織固めを行って一揆勢の意思統一を図り、庄屋帰還阻止運動や歩岐島騒動など節目となる重大事には数千人の大衆動員を行い、郡上郡内各地域で分担して献金を集めて闘争資金とするといった、現代的とも言える優れた方法で闘争を進めていたことがその理由として挙げられよう。 その他郡上一揆の大きな特徴としては、藩主金森頼錦が改易された上に、老中、若年寄、大目付、勘定奉行という幕閣中枢が罷免されたという点が挙げられる。 百姓一揆が原因で大名が改易された例としては、正徳二年に安房国北条藩の屋代忠位が万石騒動によって改易された例があるが、幕閣中枢が罷免される事態を招いた例は郡上一揆以外ない。 金森頼錦の改易は、諸国の諸大名にも見せしめにもなり、職務を間違えれば、たとえ幕閣といえども罷免されることを世間知らしめた意義は大きい。 宝暦期は幕府が大名に対する統制を強化した時代であり、金森頼錦の改易も大名統制の一環との見方もあるが、当時、これまで幕府を支えてきた石高制の矛盾が現れてきており、そのような中で幕府内では年貢増徴によって財政健全化を図ろうとする勢力と、年貢増徴策の限界を見て商業資本への間接税課税に活路を見出そうとする勢力との路線対立が表面化していた。 藩の財政難を年貢の増微で凌ごうとすることも安易にすれば大失敗を招くことも教訓になった。 郡上一揆の裁判の結果、年貢増徴で財政健全化を図る勢力が衰退し、商業資本との共生を通じて間接税課税を進める勢力が主導権を握るようになった。 そのような中、急速に台頭してきたのが田沼意次であった。郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味に参加を命じられた田沼は、幕閣中枢が関与した難事件であった郡上一揆の吟味の経過で辣腕を見せた。 田沼を信任して評定所吟味に参加させた将軍家重を始め、幕府内でその政治的、行政的能力が認められることになる。そして田沼は事件終了後も評定所への参加を継続し、幕政に直接関与するようになった。 また田沼は郡上一揆と石徹白騒動の評定所吟味の最中である宝暦八年九月、郡上一揆の責任を問われ失脚した西丸若年寄本多忠央の領地であった遠江相良の領地を加増され、大名に列した。 将軍世子家治付の若年寄であった本多忠央は、家治が将軍になった暁には権力の座に就くことが予想されていたため、結果として本多忠央の失脚も田沼意次台頭の要因の一、つとなった。 「おわりに」 郡上一揆は財政難で苦しむ藩の救済策として年貢の増微を巡って徴収法を変えて、増税を目論んだ藩政に農民が一揆で立ち上がり攻勢をかけ、一時は農民の要求を受けれたが、藩内にも二分する税制問題に、藩主は適正な判断を下さないままに、藩の取り扱いと農民側との対立が起きて、大規模な一揆に発展する。駕籠訴、箱訴と繰り返し、長期な幕府の裁可が遅れて、下された判断は藩主の改易と、農民は寝者、立者の深い溝を作って多大な犠牲者と、処刑者を出して解決した。これを機に幕政の政策も考え直され、農民も直訴に扱いや、藩政の税法にどう対処すべきか大きな経験と試金石になった。 了