516836 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年07月27日
XML
カテゴリ:大名のお家騒動





3・「お由羅騒動」


斉溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中阿部正弘伊予宇和島藩主・伊達宗城越前福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めた。こうして嘉永四年(1851)二月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任した。この一連のお家騒動お由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉溶鉱炉の建設、地雷水雷ガラスガス灯の製造などの集成館事業を興した。


嘉永四年(1851年)七月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年(1854)、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。


黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革安政の幕政改革)を訴えた。


特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を介して、フランスとの兵器購入・交易を画策し市来四郎を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。


安政四年(1857)の阿部正弘の死後、安政五年(1858年)に大老に就いた井伊直弼将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第十三代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、宗城ほか四賢侯、斉昭らは次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。


斉彬は公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願している。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が第十四代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。斉彬はこれに対し、藩兵五千人を率いて抗議のため上洛することを計画した。


しかし、その年の月八日鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、月十六日に死去した。享年五〇歳(満四九歳歳没)。死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。


 


島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本政治家幕末薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。


明治政府内閣顧問左大臣重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。位階勲等爵位従一位大勲位公爵は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。島津家二十七代当主(薩摩藩十代藩主)島津斉興の五男。同二十八代当主(十一代藩主)島津斉彬は異母兄、同二十九代当主(十二代藩主)島津忠義は長男。次男・久治宮之城家、四男・珍彦重富家、五男・忠欽今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。


曾孫に香淳皇后、玄孫に今上天皇がいる。文化十四年(1817)十月二十四日、薩摩国鹿児島郡(現鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城において誕生する。生母は斉興の側室・お由羅の方幼名は普之進(かねのしん)。文政元年(1818)三月に種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける。


 文政八年(1825)3月13日に島津宗家へ復帰し、4月に又次郎と改称する。同年十一月一日、島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。これを機に鹿児島城から城下の重富邸へ移る。文政十一年(1828)二月十九日に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)のを授かる。


天保年(1836)二月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保十年(1839)十一月に重富家の家督を相続し、十二月に通称を山城と改める。弘化年(1847)十月、通称を山城から周防へ改める。斉興の後継の地位をめぐり、斉彬と忠教の兄弟それぞれを擁立する派閥が対立してお家騒動お由羅騒動)に発展した結果、幕府の介入を招来し、嘉永年(1851)二月二日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる。


また忠教は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。安政年(1858)七月十六日に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子・忠徳が十二月二十八日、藩主に就任する(忠徳は翌6年2月、将軍徳川家茂に謁見し、その偏諱を授かって茂久と改名。後の忠義)。茂久の後見を務めた斉興が安政六年(1859)六月十二日に没すると、藩主の実父として忠教の藩内における政治的影響力が増大する。


文久元年(1861)四月十九日に宗家へ復帰、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握する。二十三日、通称を和泉、諱を久光に改める。文久二年(1862)二月二十四日、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る(以後、藩内において「副城公」とも称される)。藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通税所篤伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平海江田信義吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メン





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年07月27日 07時32分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[大名のお家騒動] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X