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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年07月29日
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カテゴリ:嘉吉の乱





     
〇季瓊 真蘂(きけい しんずい、応永8年(1401文明元年8月1114699月16))は、室町時代臨済宗相国寺塔頭鹿苑院内の蔭涼軒主(蔭涼職)。


     蔭涼軒真蘂とも。播磨赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。


     雲頂院の叔英宗播に師事、永享7年(1435)に将軍と鹿苑院主(僧録)の連絡役である蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。


     嘉吉元年(1441)に赤松満祐らが6代将軍足利義教暗殺した嘉吉の乱では、満祐の居城である播磨坂本城に赴き義教の首級を受け取っている。


     直後に引退するが、長禄2年(1458)に8代将軍足利義政の引き立てで復帰、伊勢貞親らと共に義政の政治顧問となり、京都五山の人事権を握り幕政に影響力を持つ。


     同年、赤松氏遺臣が長禄の変で功績を挙げると赤松氏復帰を義政に取り立て、赤松政則を当主として再興させた。寛正6年(1465)に義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、管領の1つの斯波氏の家督問題(武衛騒動)にも介入し(一時的に当事者の1人、松王丸稚児として預かっていた)、文正元年(1466)に対立する細川勝元山名宗全らによる文正の政変で貞親・斯波義敏・赤松政則らと共に失脚した。


     応仁元年(1467)からの応仁の乱近江へ逃れ、応仁2年(1468)に義政の命令で京都へ戻ったが、政治に復帰出来ないまま翌文明元年(1469年)に死去。享年69。


     応仁記』などでは否定的評価で書かれている一方、政則の家臣浦上則宗宗湛らと交流があり、失脚前の文正元年2月から閏2月に休暇で彼らと侍所所司代多賀高忠を交えて有馬温泉に滞在したことを書き残した。


     また、蔭涼職の公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。


 


     足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442 – 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教嫡男庶子


     生まれてすぐに政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されたが、嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱が起こり、父・義教が赤松満祐暗殺されたため室町殿へ移された。


     翌嘉吉2年(1442)11月、管領細川持之らに擁されて9歳で元服、将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。


     義勝は幼年で政治能力が無いため持之が実権を掌握、彼の死後は畠山持国山名持豊や生母の日野重子らが実権を握り、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐、嘉吉の徳政一揆などを平定した。


     嘉吉3年(1443)6月19日には、義教への弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見している(『康富記』)。


     しかし、同年7月21日に死去。享年10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。


     死因は落馬暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている 


     後任の将軍には同母弟で8歳の三寅(のち義成、義政)が選出された(将軍就任はその6年後の1449)。


     義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。


     墓所は安国寺慶雲院にあったとされるが、焼失したため現存せず、遺骨等も所在不明となった。


     木像は等持院に現存している。建仁寺塔頭・霊源院には義勝が描いたという「達磨図」が現存している。


     図上にある江西龍派の賛によると、義勝10歳の時、家臣の千秋持季に描き与えたものだが、程なく義勝は夭折、持季はこの絵を見るたびに追慕の情に堪えきれず、江西に着賛を求めたという。






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最終更新日  2023年07月29日 06時30分18秒
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