『江戸泰平の群像』109・加藤 忠広(かとう ただひろ)(1601~1653)は、江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、江戸幕府は加藤家に対して9か条から掟書を示し、「水俣城・宇土城・矢部城の廃止」「未進の年貢の破棄」「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」「支城主の人事・重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件とした[1]。後に一国一城制によって、鷹ノ原城・内牧城・佐敷城の廃止も命じられ、最終的には熊本城と麦島城だけの存続が許された。藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられているが、年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった。遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことが、改易の理由であるとされるが、他にも改易の理由には諸説ある。忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも、駿河大納言事件に連座したためとも言われている[要出典]。春日局の兄・斎藤利宗は父の清正により5,000石で召し抱えられ、忠広にも仕えていたが、徳川忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。また、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名、しかも豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたという説もある。また、父・清正が残した課題が忠広の統治に大きな影響を与えたとする研究もある。加藤清正は新田開発や治水工事の逸話が知られている一方で、朝鮮出兵に対応するための動員体制が、その後も関ヶ原の戦い・天下普請に対応するために継続され、その結果百姓は度重なる動員や重税に悩まされて農村は荒廃した。また、支城主には大きな権限が与えられ、清正が没して幼少であった忠広が家督を継ぐと幕府が直接介入して彼らを抑制しようとしたが、その統制も困難になってきた。それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったとされる。正室の崇法院は忠広の配流に同行しなかった。嫡男の光広は飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居したが、配所にて過ごすこと1年後の寛永10年(1633年)に病死した。これには自刃説、毒殺説もある。次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていたが、父の後を追って自刃した。これにより加藤氏の後継者がなくなり、領地は収公された。娘の献珠院は忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の姉、徳川頼宣正室)のはからいで旗本・阿倍正之の五男・正重に嫁したが、約3年後、正重が家督を相続直後に32歳で死去した。丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。