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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年07月31日
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カテゴリ:応仁の乱の群像






11、「両上杉間の抗争」


   両上杉氏間の抗争(長享の乱・第二代足利政氏と上杉顕定)[編集]


   享徳の乱終結後、今度は山内上杉家と扇谷上杉家との抗争(長享の乱)が始まった。扇谷上杉定正が家宰の太田道灌を暗殺した直後の長享2年(1488)、山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始すると、定正は古河公方成氏政氏らの支援を得て反撃し、相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で優勢に立った。


   しかし、明応3年(1494)に定正が陣中で急死した後、家督を継承した上杉朝良駿河国今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得る一方で、今度は顕定が第2代古河公方となった政氏らの支援を得て再度対陣し、永正元年(1504)武蔵立河原で扇谷勢が大勝したにも関わらず、永正2年に山内勢が朝良の本拠河越城を攻撃すると、朝良は顕定に和睦を申し出て乱が終結した。[8][24]


   この抗争の中で、上杉顕定は古河公方との結びつきを強化する。


   堀越公方の滅亡」・「上杉朝良と外部勢力(伊勢宗瑞等)の結びつき」などの事件が続けて発生して、旧来の秩序が不安定化すると、顕定は関東管領として政氏のもとに出仕し、さらに政氏の弟を養子に迎えて後継者(顕実)とするなど、関東管領を古河公方「御一家」と成すことで、いわゆる「公方-管領体制」の再構築と秩序回復を進めた。


   公方家内紛(永正の乱・政氏と第三代足利高基)[編集]


   永正3年(1506)、足利政氏の嫡子である高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移座し、公方家を動揺させる内紛(永正の乱)が始まった。


    不和の原因は良く分からないが、例えば、高基が山内上杉顕定に対して、異心なきことを誓った起請文を出していることから、政氏を支えていた顕定と高基との間に問題があったと推定される[


   また、政氏が山内上杉氏との連携を重視する一方、高基は対立する後北条氏を重視したことを取り上げる見解もある。他には、高基の正室は宇都宮氏から瑞雲院(宇都宮成綱の娘)を迎えているが、このように正室を周辺の伝統的豪族に求めた例はないことから、高基と宇都宮氏との特別な関係も背景として考えられる。「宇都宮氏をめぐる領主間抗争に際し、高基が宇都宮氏に擁立された」とも言える。


   永正6年(1509)、顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河に帰座したが、翌7年に顕定が越後で戦死した直後、高基は再び古河城を離れて、公方家重臣簗田高助関宿城へ移座した。同時に山内上杉家でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大した。[


   永正9年(1512)、憲房が顕実本拠の武蔵鉢形城を攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。代わりに高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した結果、「公方-管領体制」は、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。のちに憲房もまた、高基の子を養子に迎えて、関東管領の後継者(憲寛)とする。


   永正13年(1516)、高基方の中心人物である宇都宮成綱縄釣りの戦いで政氏を支持する佐竹義舜岩城由隆に勝利したことや、政氏を支持する那須氏が宇都宮氏と同盟を結び、高基方に寝返ったことや、小山氏内部において、高基を支持する小山政長らが主導権を握ることになると、政氏の敗北は決定的になった。政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移座し、同15年(1518)の朝良死去後は、甘棠院埼玉県久喜市)にて隠棲した。



   公方権力の分裂(古河・小弓の嫡流争い)


   小弓公方の成立(足利高基の時代)


   足利高基の弟である義明は、 雪下殿鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあり、空然と称したが、還俗して義明と改名した。初代足利成氏の時代にも、弟の定尊が雪下殿として、寺社による地方支配体制、いわゆる「公方-社家体制」を支えて、公方権力の一翼を担っており、義明も同様の立場であった[34][32]


   永正の乱当初、義明は高基に協力したが、高基が古河公方の地位を確立すると、独立して行動し始めた。


   永正14年(1517)、上総の真理谷武田氏が、高基側の下総・原氏から小弓城を奪取。義明は下河辺庄高柳(久喜市高柳)から小弓城に移座し、自らを政氏の後継であるとして、嫡流を高基と争ったため、これを小弓公方と呼ぶ。


   この結果、公方権力は分裂し、その一翼を担った「公方-社家体制」も崩壊した。小弓公方は、扇谷上杉朝良および安房国里見氏常陸国小田氏多賀谷氏らにも支持された大勢力であった。北条氏綱も、真理谷武田氏との関係により、小弓公方を支持した。


   永正16年(1519)、高基は小弓側の拠点である椎津城市原市)を攻撃したが、義明は里見氏の軍勢で反撃した。その後も、古河側の高城氏拠点根木内城と小弓側の名都借城流山市)など各地で激戦が繰り広げられ、古河側重要拠点の関宿城も小弓勢の脅威にさらされた。


   小弓公方の滅亡(国府台合戦・第四代足利晴氏)


   天文2年(1533)および天文3年と、小弓公方支持基盤となっていた安房の里見氏および上総の真理谷武田氏において、連続して家督争いが始まった。


   このとき、義明は里見義豊 真里谷信応を支持し、北条氏綱里見義堯真里谷信隆を支持した。この家督争いの結果、特に真理谷武田氏は大きく衰退する。同じころ後北条氏の武蔵侵攻を受けて、扇谷上杉氏の勢力も後退したため、小弓公方をとりまく状況が大きく変化し始める。


   享禄 4年(1531)、古河公方が高基から嫡男の足利晴氏に、同時に関東管領も高基次男の上杉憲寛から、嫡流の憲政に代わる(詳細は「関東享禄の内乱」参照)。晴氏が第4代古河公方となった後の天文7年(1538)、晴氏の上意を得た後北条勢が下総国府台に進出した小弓勢を打ち破った(国府台合戦)。この結果、義明が敗死して小弓公方は滅亡し、古河・小弓分裂状態が解消された。






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最終更新日  2023年07月31日 13時33分10秒
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