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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月01日
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カテゴリ:江戸泰平の群像


『江戸泰平の群像』125・本多 政利

(ほんだ まさとし)(1641~1707)は、
江戸時代前期の大名大和郡山新田藩主、播磨明石藩主、陸奥大久保藩主。本多政勝の次男。父・政勝は、本多家宗家である従兄の大和郡山藩主本多政朝の跡を相続し襲封した。これは政朝の実子政長が、わずか6歳という幼少であったために襲封したもので、政勝の跡は政長と定められていた。しかし、実子の政利に家督を相続させようと考えた政勝は大老酒井忠清に取り入ろうとするが、家臣の都筑云成の忠言により、政長が養嗣子と定められた。寛文11年(1671)に政勝が死去すると、政利は即座に酒井忠清に裏工作し、政勝の遺領15万石のうち9万石を政長に、6万石を政利に相続させる幕府の裁定が下った(九・六騒動)。この騒動はこれで終わらず、15万石全てを相続できなかった不満で、政利は延宝7年(1679年)夏に政長を毒殺したと伝えられている。結局、政長の後は養嗣子の忠国が相続し、忠国は相続と同時に陸奥福島へ転封となり、政利も延宝7年(1679年)626日に播磨明石へ転封となった。このとき、6万石のうち3万石を宗家の忠国に返還し、新たに3万石を与えられている。その後、政利は過酷な政策を強いた罪や巡見使に対する作法が不適切であったことにより、天和2年(1682年)222日に陸奥大久保(岩瀬藩)に1万石に減封の上、転封となった。さらに、侍女の殺害や領民に過剰な使役を科すなどの不行状が幕府の耳に入るところとなり、元禄6年(1693613日に除封となり、出羽庄内藩酒井忠真の預かりの身となった。しかし、ここでも政利は家臣に暴力を振るうなど粗暴な振る舞いを見せたため、死刑にも当たるとされたが、狂気の沙汰として減免され、元禄15年(1702726日に三河岡崎藩水野忠之の預かりに変えられ、岡崎城の一室に幽閉された。宝永4年(1707128日、同地で死去した。享年67


 


 


 


 


 


 


 






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最終更新日  2023年08月01日 12時31分45秒
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