『江戸泰平の群像』132・近松 門左衛門
(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれる。母は医者の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里。幼名は次郎吉、元服後の諱は信盛と称した。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいる。出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説あったが、現在は越前とするのが確実とされている。近松の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子の松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えた。天和3年(1683年)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されたが、翌年に加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本(興行責任者)となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取った。『世継曽我』に作者名はないが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松の作であることは間違いないとされている。以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、貞享2年(1685年)に竹本座で出された近松作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。貞享3年には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。元禄5年(1692年)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかといわれる)、その間に一女一男をもうけた。このうち男子は多門と称し絵師になっている。元禄6年以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いた。十年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。元禄16年(1703年)、『曽根崎心中』を上演。宝永2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出す。このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念した。正徳4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けた。正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。享保元年(1716年)、母の喜里死去。同年、尼崎の広済寺再興に講中として加わる。晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。享保9年、『関八州繋馬』を絶筆として11月に死去。享年72。辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。墓所は大阪市中央区谷町。もとは同地の法妙寺境内にあったが、法妙寺は大東市寺川に移転し、近松の墓だけが旧地に留まった。ただし移転した法妙寺にも近松の墓が建てられており、ほかには広済寺にも墓がある。戒名は阿耨穆矣一具足居士。忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている(明治以降は新暦で行われる)。