443067 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年08月10日
XML
カテゴリ:戊辰戦争の群臣





 
一方で7日に上京した薩摩藩士大久保利通(一蔵)は小松清廉(帯刀)と共に9日に中川宮朝彦親王に、11日には近衛忠房に謁見した。3月2日、京都所司代への御沙汰書が降下された。


   内容は藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予すること、参勤交代の制度は文久の幕政改革の内容に戻すこと、将軍は上洛した上で国是を評議することであった。慶喜・容保は所司代に御沙汰書を留置させ、御沙汰書は一旦撤回され、14日に本荘宗秀が参内して受け取り4月3日、江戸城に登城して幕府に提出した。


   大目付の塚原昌義が3月22日に大坂に入ったが、広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩は藩主父子の江戸拘引の協力は断わった。幕府は19日に将軍の西上を布告、4月1日には藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達した。


   4月12日、尾張藩前藩主の徳川茂徳が先手総督に、紀州藩主徳川茂承が副総督に任命された。18日、「毛利大膳親子等容易ならざるの企あるの趣相聞え、更に悔悟の体なく、且御所より仰進ぜられし趣もあり、かたがた征伐仰出され、五月十六日進発す」と進発令が出された。閏5月16日、将軍家茂は江戸を出発し、閏5月22日に上洛し参内。翌23日は二条城、24日は伏見に泊まり25日に大坂城へ入った。


   武備恭順に藩論を統一した長州藩の重役は嘆願書を作り吉川経幹、広島藩、徳川慶勝を経て幕府へ上申した。6月23日、広島藩へ毛利元蕃、吉川経幹を大坂に招致する命令が出されたが、長州側は病気のため猶予を願うと回答した。


   8月18日、重ねての命令が出され、病気で無理ならば毛利元周、毛利元純、並びに長州藩主の家来が9月27日までに上坂せよと長州藩に伝えられたが、8日、長州側は再び病気を理由として拒否をした。長州処分が不振を極める中で幕兵の士気は落ち幕府の財政は悪化した。


   このままでは将軍の畿内滞在態勢がいつ崩壊するか分からないため、慶喜は再征勅許というイベントを起こして態勢を立て直そうとする。16日、大坂から家茂が京都に入り21日、再征勅許を巡る朝議が開かれた。


   しかし近衛忠房は大久保利通の入説により反対、近衛が朝議に出てこないため確かめると大久保が引き止めていた。慶喜は「匹夫の議に動かされて参内の時刻を移し、あまつさえ軽々しく朝議を変ぜんとするは奇怪至極せり、斯くては将軍を始め一同職を辞せんのみ」と激怒、朝議を牽引した慶喜は勅許を獲得したが23日に家茂は大坂に戻った。


   家茂が大坂に戻ったのは摂海に異国船が入ってきたためであった。同日、阿部正外、山口直毅、井上義斐はイギリス艦プリンセスロイヤルでイギリス・アメリカ・オランダと会談、その後グランス艦ゲリエールでフランス公使と会談した。イギリスの兵庫開港要求の諾否につき阿部は即答せずに大坂城へ持ち帰り、24日、25日と幕府首脳は会議を開いた。


   阿部と松前崇広は幕府の専権で兵庫大坂の開港開市を決めると決断し閣議をまとめた。回答の期日と約束したのは26日である。


   『徳川慶喜公伝』によると24日、京都で将軍の招命をうけた慶喜は25日夜に京都を出た。26日「明星の尚閃く頃」に大坂に着いた慶喜は、大坂城の評議はすでに解散していたため阿部の宿舎を訪れ兵庫の応接を尋ねた。


   阿部は幕府の責任で決定したと返答し朝廷の許しが得られなければ将軍は辞職をすると伝え、慶喜は勅許を得ずに開市開港すれば朝廷の信頼を失い諸藩も収まらないとし、「されば唯今より直に諸有司を城中に招集して再議せらるべし」としてそのまま大坂城に入った。


   26日、慶喜は公使には回答の延期を申し出てその間に天皇から勅許を貰うべきとし、阿部・松前は幕府の独断で行うと主張。結論はでなかった。


   立花種恭は延期の使者となりイギリス公使ハリー・パークスに10日間の猶予を申し出た。立花から見たパークスは怒り、暴言を吐き、挙動傲慢であったが、にわかに語気を改めて10日間の猶予を認めた。


   この際に同行した大坂町奉行の井上義斐が誠意をもってイギリスと交渉し猶予を獲得したとされる。慶喜からみた両老中は10日間の猶予を貰ったと知らされると「別室に慶喜を招き」「涙を流して後悔の念をあらわして」どんな罪でも伏罪すると表明し当面は謹慎するとした。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年08月10日 06時19分31秒
コメント(0) | コメントを書く
[戊辰戦争の群臣] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X