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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月12日
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カテゴリ:江戸泰平の群像



『江戸泰平の群像』172・徳川 吉宗
(とくがわ よしむね)(1684~1751)は、江戸幕府8将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩5代藩主を務めた。徳川御三家紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされる。貞享元年(16841021日、徳川御三家州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる(次兄は早世しているため三男と数えられることもある)。母は紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門(利清)の娘・浄円院(於由利の方)。和歌山城大奥の湯殿番であった於由利の方は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある。幼年は家老の元で育てられ、兄の次郎吉が病死した後は名を新之助と改めて江戸の紀州藩邸に移り住む。宝永2年(1705)に長兄・綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州徳川家を相続し、第5代藩主に就任する。藩主に就任する際、将軍・綱吉から偏諱を授かり、(徳川)吉宗と改名する。宝永3年(1706)に二品親王伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を簾中(正室)に迎えているが、宝永7年(1710)に死別した。宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害(1707宝永地震)の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。紀州藩主時代には、女中との間に長男・長福丸(のちの徳川家重)、二男・小次郎(のちの田安宗武)が生まれている。紀州藩主としての治世は106か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国3回、紀州在国の通算は24か月であった[2]享保元年(1716)に第7代将軍・徳川家継8歳で早世し、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任した、と一般的には説明されている。実際には、館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武という、れっきとした秀忠の男系子孫が存在していた[3]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、本人もひとたび他家に養子に出た身であり、すでに高齢で男子がいなかった事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている。御三家の中では格上であった尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで早逝した。そのため吉通の異母弟継友6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己 と婚約し、しかも間部詮房新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の最有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、5代将軍・徳川綱吉の館林藩館林家6代将軍・徳川家宣の甲府藩甲府家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名旗本から好感を持って迎えられた。


 






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最終更新日  2023年08月12日 07時01分28秒
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