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カテゴリ:保元の乱
体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退した。一方、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。 両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。
3「後白河天皇」 ✿ 後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉- 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。 ✿ 鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。 ✿ その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。 ✿ 政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。 ✿ 南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。 ✿ 和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。 ✿ 親王時代、大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。 ✿ 11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。 ✿ 院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。 ✿ 体仁親王は崇徳帝中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。 ✿ 天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。 ✿ 一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。 ✿ この頃、田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。 ✿ 後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。 ✿ 声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。 ✿ 待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。 ✿ 鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。 ✿ その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。 ✿ 今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年08月28日 12時04分22秒
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