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カテゴリ:保元の乱
u 元罪人で、下部とも呼び、罪を許され検非違使庁で働くものである。実際に犯罪者を探索し、捕縛や拷問を担当した。 u 平 基盛(たいら の もともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。 u 久寿2年(1155年)4月11日に鳥羽天皇の院判官代に補され、翌日左兵衛尉に任じられた。 u 同年11月には左衛門少尉となり、12月には検非違使の宣旨を受けた。保元元年(1156年)の保元の乱に際しては、父とともに後白河天皇方に参加。 u 18歳ながら宇治路の警護に当たり、東山法性寺の辺りで崇徳上皇方に参陣途上の源親治を捕らえるという大功を立てた(『兵範記』『保元物語』にはこの時の基盛の活躍が描かれている)。 u これを賞され戦後の9月には蔵人に任じられ、従五位下に叙勲された。その後は大和、淡路の国司にも任じられている。 u 続く平治の乱(1159年)においては、当初父清盛や異母弟宗盛らとともに紀伊国の熊野詣において藤原信頼らの挙兵の報に接するも、在地豪族らの協力により無事帰京を果たして反乱軍を撃破。 u この政変を経て平家一門の政権基盤が確立されると、基盛も一門の有力者の一人として左衛門佐、遠江守、越前守、内蔵頭を歴任した。 u 『衛門府補任』によると永暦元年(1160年)の1月21日に左衛門佐に任じられたようで兼任として宗盛の後任の遠江守にも任じられており、同年12月29日に越前守に転じているがこの時の越前守の前任の藤原季能は基盛の死後に彼の娘婿となる。 u しかし応保元年(1161年)9月15日に憲仁親王皇太子擁立の疑いで親族の時忠と教盛が解官されているが、左衛門佐も基盛から藤原雅隆に変更されておりその理由は不明。 u その直後からは二条天皇の内裏である押小路東洞院皇居の紫宸殿の造営の任に当たっているが、翌応保2年、同事業の完成と時期を同じくして24歳で早世した。 u 定説では病死とされるが、『源平盛衰記』においては、宇治川を騎馬で渡河しようとした際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した、と記されている。 u 一子行盛は父の死後伯父の重盛に養われ、一門の都落ちに同行して壇ノ浦の戦いで自害している。また一女は後白河天皇と八条院の近臣である兵部卿藤原季能の室になっている。
翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。 没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。 この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年08月30日 06時27分06秒
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