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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月31日
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カテゴリ:保元の乱


 
13「上皇方の投降


合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。


藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。


忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。


13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。


Y  仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。


Y  皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。


Y  御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。


Y  徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道御室流」の家元でもある。


Y  普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。


Y  宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館[1]のほか、「松林庵」(しょうりんあん)を改修して高級宿坊としている。


Y  仁和寺は平安時代初期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建て始められた。光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、遺志を引き継いだ宇多天皇によって仁和4年(888)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて年号をとって仁和寺と号した。


Y  宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室(仁和寺)御所」の別称がある。仁和寺の初代別当天台宗幽仙であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢に交替させて真言宗の寺院として定着。


Y  その後は宇多天皇の子孫が別当を務めてきた。11世紀三条天皇の皇子である性信が別当の上に新設された検校に任じられて以降は、皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。


Y  なお「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。


Y  仁和寺はその後も皇族貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助足利義満の子法尊2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。


Y  室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。応仁の乱の最中、本尊阿弥陀三尊像は持ち出され、焼失を免れた。仁和寺が本尊と共に、双ヶ丘の西麓へ移された時期があった。


Y  近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川幕府により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居(現・京都御所)建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。


Y   この江戸期の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が尽力した。仁和寺で使われている軒丸瓦(仁和寺の寺号入り)のデザイン、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏尊の選定を行った。


Y   仁和寺霊宝館に顕証上人像が収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段に使っている袈裟を身に付けているという。


Y  また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、仁和寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させた。


Y  第二次世界大戦終盤、日本の敗戦が濃厚となったため、昭和20年(1945)1月20日以降、数度にわたり、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭和天皇が仁和寺で出家する計画について当時の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討した。


Y  1月26日、近衛文麿の別荘において、近衛文麿と昭和天皇の弟宮との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。


Y  霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、昭和20年、近衛文麿が仁和寺を訪れた際に揮毫した絶筆である。


Y   


しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。


やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。


崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。


 


 


 






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最終更新日  2023年08月31日 06時10分53秒
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