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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月07日
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治承・寿永の乱は、源平合戦(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、平氏政権から頼朝政権(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から清盛・宗盛ら平氏一門と頼朝・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、この呼称を生んだといえる。


しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。


この乱には熊野勢力や興福寺、園城寺などの寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、内乱前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に挙兵)や九州の在地豪族など源平という氏族に無縁の勢力も数多く蜂起している。


また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。


また、源氏や平氏は皇族から分岐した家系であり、当然ながら非武士の貴族層にも多数の源氏・平氏がおり、当時の源氏長者(いわゆる源氏の一族のトップ)も非武士の貴族である(武士が源氏長者になるのは、後世の足利義満からである)。非武士の源氏・平氏が、それぞれ武士の源氏・平氏に直接的・間接的に加担・援助したという記録は一切存在しないし、関与する動機が存在しない。


つまり、源平合戦の呼称で想起されるような、源氏と平氏がそれぞれの一族を糾合して戦った訳ではないのである。確かに、武田信義や木曾義仲など、反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。


しかし、源氏一族に属していても、平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。このことは平治の乱において、摂津源氏源頼政河内源氏源義朝とは完全に別行動を取っていることからもうかがえる。


野木宮合戦や頼朝と義仲の争い、義仲と行家の争いなど源氏内部での戦いもこの一連の内乱に含まれる。同時に蜂起した諸源氏であったがそれらが全て最初から源頼朝の指揮下にいたとは限らないのである。


更に源義朝・頼朝父子が源氏嫡流であったというのは鎌倉幕府の成立と言う結果論から成立したものであり、実際の河内源氏は複数の流れに分かれて単独の嫡流が存在する状態ではなく、河内源氏を代表する武者であった源義家の後継に限定したとしても、大蔵合戦や保元の乱で父や弟を討ってその地位を得た源義朝の後継者である頼朝だけではなく、大蔵合戦で討たれた源義賢の後継者である義仲や、義朝・義賢の弟である行家もその地位を主張できる存在であった。


源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。


一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。


源頼朝に従った平氏


北条時政土肥実平熊谷直実畠山重忠梶原景時三浦義澄千葉常胤上総広常など、坂東八平氏を中核に多数。


平宗盛に従った源氏


新田義重佐竹秀義源季貞など。







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最終更新日  2023年09月07日 12時23分35秒
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