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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月07日
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カテゴリ:高杉晋作



「高杉晋作と功山寺挙兵」


1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・2


2、 「禁門の変と下関戦争」・・・・・・・・・・・・・4


3、 「高杉晋作と長州正義派」・・・・・・・・・・・・30


4、 「長州各派の経過」・・・・・・・・・・・・・・・51


5、 「駆逐される正義派」・・・・・・・・・・・・・・61


6、 「解散命令」・・・・・・・・・・・・・・・・・・76


7、 「開戦回避の運動」・・・・・・・・・・・・・・・85


8、 「三家老四参謀の死」・・・・・・・・・・・・・・99


9、 「諸隊と五卿の長府行」・・・・・・・・・・・・・105


10、「戦争回避の条件のすり合わせ」・・・・・・・・・119


11、「高杉晋作の帰還決意」・・・・・・・・・・・・・124


12、「高杉の独走」・・・・・・・・・・・・・・・・・133


13、「功山寺挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・・136


14、「征镸軍解散令」・・・・・・・・・・・・・・・・・151


15、「緒隊解散令」・・・・・・・・・・・・・・・・・・162


16、「戦後処理」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・179


17、「主な団体と人物」・・・・・・・・・・・・・・・・182


18、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・191


 


1「はじめに」


「功山寺挙兵の起因」(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15186512)に高杉晋作正義派長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺下関市長府)で起こしたクーデター 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。


幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊石川小五郎率いる遊撃隊長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。


晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。に桂小五郎の斡旋により帰郷。


元治2年(18651月11付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(186729には新知100が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。


禁門の変馬関戦争の後、朝廷と江戸幕府は長州藩へ、懲罰として十五万もの征長軍派遣を決定した。 長州では藩存亡の危機を前に、攘夷を志向しこれまで藩制を指導してきた長州正義派と、正義派の藩制指導に反発する椋梨藤太に率いられた俗論派らの争いが激化し、ついに武力衝突にまで発展する。 最終的に正義派が勝利し俗論派は排撃されたが、正義派・俗論派・征長軍の各勢力内は細かく分派し、それぞれが独自行動をしたため事件は複雑な経緯を辿る。


 


 


 






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最終更新日  2023年09月07日 16時16分03秒
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