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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月09日
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カテゴリ:高杉晋作


 
15「諸隊解散令


同日、遊撃隊鎮静軍が諸隊へ出発した。 藩政府軍は伊佐の諸隊については恭順済みと認識しており、進撃路に陣取る伊佐の諸隊へ使者を送り、鎮静部隊が通行する際は道を明けるよう伝えた。


諸隊は藩政府軍の命令を拒否し、諸隊は萩に赴き陳情を行う用意があり、逆に鎮静部隊が道を開けるべきだと回答した。 藩の命令を拒否する諸隊を怪しんだ鎮静軍は使者を送り、諸隊に武器を返納し解散するよう命じた。


公爵山縣有朋伝によると、この時、伊佐の諸隊幹部は再度衆議を行い、馬関の高杉晋作に同調して決起することを決めたという。


ただし山縣は即座の戦闘開始に反対し、藩政府へ諸隊を武装解除すると偽り、武装解除する見返りとして、諸隊が度々提出していた武備恭順の建白書を承認するよう藩政府に要求することを決めた。


もちろん実際は武装解除せず、建白書が受け入れられなかった場合は、藩政府軍と戦端を開く決意をしていたという。


また諸隊幹部は藩の使者に対して、一度にすべての隊の武装解除を行うと動揺が大きいため、順次武装解除を進め1月3日までに諸隊を解散することを伝え、3日までに提出中の建白書への回答を行うよう伝言した。 諸隊側の資料には、解隊を了承した為、使者は笑顔で帰ったとの記述がある。 ただし藩政府側の資料には、復命した使者は、諸隊の顔には怒気があり不穏な空気であったと記述がある。


諸隊が俗論派の藩政府に恭順して伊佐に移った17日以降、ニ卿の萩行拒否、鎮静のための大軍派遣、7人の正義派高官の処刑、最後の正義派家老の切腹、また時期不明なれども萩に在していた南園隊が逃亡して伊佐の諸隊と合流するなど、正義派にとってボルテージの上がる出来事が頻発したのは間違いなく、複数の資料にある通り諸隊解散の命令の出た12月28日に、高杉とともに立ち上がることを決心したのは事実と思われる。


12月29、征長軍総督府は吉川監物へ、正式に解兵令を伝えた。 戸川ら総督府内の幕臣が広島を離れ江戸へ帰国する。


同日、再び根来が五卿に拝謁し渡海を促す。


同日、長府藩三好新造は藩政府に対し、御楯隊が功山寺を離れ、諸隊と合流したことを報告した。 また遊撃隊を追討する際は、奇兵隊が在陣している美祢街道を通るべきでない事を合わせて報告している。


元治2年1月・赤禰武人


元治1月1、 公爵山縣有朋伝によると赤禰武人は馬関にて伊藤を訪ね、両派混同論を説き、さらに高杉を罵倒する。 伊藤は赤禰と別れた後、事の顛末を共に馬関にいた遊撃隊に話した。 遊撃隊は大いに怒り赤禰を探そうとするが、危険を察した赤禰は即座に逃げ出し、翌日には九州へ渡ったという。


上述の様に、後に出世した功山寺挙兵参加者の多くが赤禰武人は俗論派に与した裏切り者であると証言している。 しかし赤禰武人はこれらの証言と当時の史料の間に矛盾がある人物でもある。


一時的にであれ諸隊が俗論派へ恭順した事実を糊塗するため、赤禰武人のみが俗論派に与し、赤禰のみが諸隊の足を引っ張ったとし、正義派は徹頭徹尾正義であったとするために、故意に赤禰をスケープゴートとして史料の改竄が行われたとする研究者もいる。


同日、藩政府軍より伊佐の諸隊へ使者が来て、期日までの武装解除を重ねて命令した。


伊崎会所襲撃


1月2、高杉は『討奸檄』という文章を起草し、兵を進め伊崎の会所を襲撃し金穀を奪った。この行動は先日の正義派高官処刑を聞いた高杉が怒った為とも、三日に予定されていた伊佐諸隊の決起の先駆けとも言われている。


また高杉はこの時の『討奸檄』を山県有朋へ渡すよう、白石正一郎へ依頼している。


同日、遊撃隊の参謀前原一誠が諸隊を訪問する。


また同日、吉川の使者が大阪薩摩藩邸を訪れ、薩摩藩の協力に謝意を示し、さらなる赦免斡旋を要請する。


さらに同日、小倉総督府は長府藩家老へ解兵の旨を授ける。


1月3、建白書回答の約束の期限になっても藩からの使者は来なかった。 伊佐の山縣は、藩政府内の混乱を考慮してさらに一日の猶予を諸隊幹部へ懇請し承認されたという。


1月4、征長軍総督徳川慶勝が広島を離れ帰国の途につく。 江戸の幕閣は総督府の長州処分が寛大すぎるとして使者を送り、『毛利藩主父子の江戸護送、五卿の江戸護送、江戸より指示あるまで軍兵を引揚げない事』を求めたが、既に解兵令が出た後だった。


慶勝は、毛利処分については江戸幕府より従軍した幕閣らとも相談したものであり、また今回の出征については総督である自分に全権が委任されていると言って取り合わなかった。


しかし江戸幕府はこの後も執拗に使者を送り、慶勝自ら江戸に上り状況を報告するよう求めた。 慶勝は困惑し江戸へ向かおうとするが、京都に入ったところで朝廷が滞京を命じた。 さらに朝廷は征夷大将軍徳川家茂の上洛の内命を下し、江戸幕府がその対応に追われるうちに慶勝の江戸行きは有耶無耶になった。






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最終更新日  2023年09月09日 12時09分33秒
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