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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月09日
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カテゴリ:高杉晋作




16「戦後処理


3月15、この時期、長州には奇兵隊・遊撃隊など叛乱前から存在する諸隊、鴻城軍など叛乱中に結成された有志隊などが混在していた。 この日、諸隊と有志隊は合流・整理され、奇兵・御楯・鴻城・遊撃・南園・膺懲・八幡・集義・萩野・第二奇兵の十隊にまとめられ、他は解体されることが決まる。 御楯隊は三田尻、遊撃隊は高森、膺懲隊は徳地、奇兵隊は馬関、八幡隊は小郡、集義隊は船木、鴻城隊は山口、南園隊は萩に屯し、四散した俗論派の撰鋒隊に備えると定められた。


東光寺派は福原良通を総督として干城隊を結成した。 干城隊は正式な藩士を中心とした隊であり世録隊とも呼ばれた。


高杉晋作は干城隊の結成を歓迎した。 高杉は、身分が低いにも関わらず自分の決起に賛同せず、勝手に戦端を開き、一時は山口進撃にも反対した諸隊に不安感を持っていた。


毛利家家臣を自認する高杉は、非常時は仕方ないとしても、なるべく早めに封建制度を回復し、上の身分に下の身分が従う体制を取り戻すことが望ましいと考えていた。 そのため諸隊の上に干城隊が立ち、干城隊が諸隊を指導・統制する体制を目指そうとした。 高杉は知人に宛てた手紙に「農は農に帰し、商は商に帰し」と述べており、諸隊の廃止も考えていた。


しかし功山寺挙兵・元治の内乱をほぼ自力で勝ち抜いた諸隊と諸隊幹部は自信を深めていた。 各地に分散を命じられたにも関わらず、諸隊は御親兵と称して藩主の側に兵を送り、積極的に藩政に関与するようになる。


  結局、高杉は最初から最後まで諸隊を御しきれなかった。 高杉は諸隊を隷属させることを諦め、統理の座を降りて無役となり、伊藤と一緒にイギリス留学を志す。


しかし井上聞多が、諸隊の専横が強まっており残留するよう高杉に泣きつき、このイギリス留学も中止となった。


その後も幕府の征討軍を迎え撃つ長州は身分ではなく能力主義を採用し、元村医の大村益次郎の指導のもと諸隊を中心に軍備を整え、高杉はその一方面司令官となった。


3月17敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。


慶応元年閏5月28、野山獄にて椋梨藤太は息子とともに斬首され、二日後に中川右衛門らが切腹した。東光寺派を襲撃した俗論派も順次捕縛・処刑され俗論派は完全に潰えた。


ただ内訌戦終了後、複数の俗論派が捕縛されたが当初は野山獄には送られず他家預けとされていた。 俗論派は正義派からポストを奪う事に熱心であったが、同時期に生じた天狗党の乱のように、老若男女を問わない虐殺はしなかった。


わずか49石取りで俗論派首魁と唾棄された椋梨藤太は、正義派の取り調べに対し「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と言った。


三家老や正義派高官の処刑、諸隊鎮静部隊の派遣についても総督府巡見使長谷川敬の意向であったことを知った正義派幹部は、俗論派の処置に躊躇したようである。 最終的に捕縛から2ヶ月経った5月に処刑されたが、この時の長州は武備恭順を決心しており、次なる戦争への戦意高揚という側面があった。


一連の元治の内乱は、内戦に至ったとはいえ幕府との戦争は回避しており、同時期の天狗党の乱と比較しても被害は少なかった。 内戦回避に尽力し、長州を救った脱藩浪士や福岡藩士、薩摩藩の西郷隆盛のその後の運命は過酷である。 脱藩浪士の中岡慎太郎淵上郁太郎らは暗殺された。 加藤司書月形洗蔵喜多岡勇平筑紫衛建部武彦ら福岡藩士らは、乙丑の獄で全員刑死した。 西郷隆盛も、返しきれぬほどの恩を与えた山縣有朋に追い詰められ、西南戦争時に自決した。



 


 


 


 


 






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最終更新日  2023年09月09日 12時55分03秒
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