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カテゴリ:幕末
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16 – 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。 海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。 龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。 後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。 海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。 一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。 いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。 京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。 龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還) 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設) 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革) 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正) 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定) 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設) 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設) 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策) 以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。 船中八策は龍馬によって書かれたとされる原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とする説もある。 ただ新政府綱領八策は自筆本が残っており、どちらにしろ思想や主張の内容は同じである。 龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、このときすでに中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。 このため、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。 7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。 結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた)。 後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。 その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。 事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000挺あまりを船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。 10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。 慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。 地下で相まみえましょう」[注 33]と激しい内容の手紙を送っている。 一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。 この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。 大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年09月13日 05時43分11秒
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