481333 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年09月15日
XML
カテゴリ:幕末



8月24日、ハリスの下田駐在は公然と認められたのである。8月29日、ハリス下田駐在を積極的に受け止めた目付岩瀬忠震を下田に派遣した。その間、岩瀬は下田奉行とともにハリスと会見した。


   ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、将軍家定に謁見し国書を手渡した。ハリスの強硬な主張によりアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府の老中首座であった堀田正睦は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させた。


   交渉は15回に及び、この間清直と忠震は国内の情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたがハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図した。


   政睦は自らただ指針を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京し条約勅許に尽力したが、3月12日(1858年4月25日)の武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。


   また孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、3月20日(1858年5月3日)に勅許を拒否した。


   一方のハリスも、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856年 – 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。


   正睦は事態打開のために松平春嶽の大老就任を画策したが、実際に大老に就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。


   しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した。直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「やむを得ないさいは調印してもよいか」と質問、直弼は「そのさいはいたしかたもないが、なるたけ尽力せよ」と答えた。


   その閣議の後、清直・忠震の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のUSS ポーハタン号に赴き、直弼の意向を無視して、艦上で条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。


   この際、ハリスから、清国に展開中の英国艦隊が近日中に日本にむけて出航準備中であるから、すぐにでも米国と条約を結ばなければ日本は英国に占領されるであろう、とブラフをかけられたという。条約調印の4日後、正睦と忠固は老中を罷免された。清直、忠震もしばらくして左遷されている。


   この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1862年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。


   しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、正睦や忠固、清直・忠震など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団のアメリカ訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。


   朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。


   幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。


   大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)、朝廷(新政府)は列国公使に対して王政復古に伴って従来の条約は「大君(=将軍)」を「天皇」と読み替えた上で引続き有効である旨を通告し、日米修好通商条約を含めた旧幕府の締結した条約がそのまま継続されることとなった。



   内容


   ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府はアメリカとの交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[6]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した。日米修好通商条約の内容は以下の通りである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年09月15日 07時06分29秒
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X