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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年09月15日
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カテゴリ:幕末




  
にらみ合いは夕方まで続き、三条らと長州勢は妙法院に退去。19日、失脚した公家のうち三条と三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人は禁足を破り、長州勢1千余とともに長州へと下った(七卿落ち)。


   長州藩は失地回復を狙い、翌年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、7月に禁門の変で会津・薩摩らと戦火を交えることとなる。


   関連する事件


   政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け9月末に壊滅した(天誅組の変)。また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲されて澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど、無残な敗北に至った(生野の変)。


   松平容保への宸翰


   10月9日、松平容保は参内し、宸翰(天皇の直筆の書状)と御製の歌を賜った。宸翰は「堂上以下、暴論を疎ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠節にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也」とあり、容保は終生肌身から離さなかった。



   政変後の推移


   横浜鎖港督促


   8月26日、孝明天皇は「これまではいろいろ真偽の分明でないものもあったが、8月18日以後に発する勅命は真実私の意志であるから、そう心得よ」と在京の諸大名に伝えた。


   政変の直後、朝廷はあらためて諸大名に対して幕命を待たずに攘夷を実行するよう命じ、うやむやになっている攘夷実行(横浜鎖港)を幕府に迫った。島津久光・松平春嶽・山内容堂ら旧一橋派諸侯は3月の帰国以来不在で、政変の遂行に協力し多数の藩兵を動員した在京大名は池田慶徳(因州)・池田茂政(備前)・蜂須賀茂韶(阿波世嗣)・上杉斉憲(米沢)[3]ら攘夷派であり、その存在を意識してのことでもあるが、(無謀な戦争を望まないものの)孝明天皇の固い攘夷意志は政変後も変わらなかった。


   一橋慶喜は実兄池田慶徳に宛てて「幕議では開港・鎖港の問題について、将軍が上洛し諫奏するという老中板倉勝静の主張が通り、場合によってはまず板倉が上洛するということになった。自分は鎖港を実現してからの上洛をと思っているが、幕議がこの調子では公武の間はうまく治まるだろうか」と書き送っている。実際に上京したのは老中酒井忠績だったが、9月14日に参内した酒井に下された朝命は、横浜鎖港の猶予を許さず早急に実行するよう迫るものだった。


   一方、長州の処分について攘夷派諸侯は寛大な処置を求めていたが、朝廷の対応は冷淡であったため、失望した彼らは9月末から10月上旬にかけて相次いで帰国した。これに代わるように、召命を受けていた島津久光が藩兵1700を率いて10月3日に入京した。久光は中川宮朝彦親王に、朝廷の旧弊打破、確固たる方針と体制の確立を申し入れた。幕政改革に続き朝廷改革も断行し、公武合体の新たな政治体制を構築しようという意図である。


   参預会議


   11月15日、天皇は島津久光に宸翰を下し、戦争は避け真に国家のためになる攘夷を迅速に行う方策を立てられたい、暴論家の主張する王政復古は好まぬので将軍に大政を委任し公武協調の政治を望んでいる、といったことなどが伝えられた。これに対する久光の回答は、武備の劣る現状では開港・鎖港の選択権は日本側には無いので今は武備充実に努め性急な攘夷はせぬこと、大政委任が妥当で王政復古は現実的でないが幕府が朝廷を軽んじるときはその罪を正す、というものであった。


   旧一橋派諸侯の入京は、10月18日に松平春嶽、11月3日に伊達宗城、同26日に一橋慶喜、12月28日に山内容堂と続いた。


   そして12月30日、朝廷はこの4人と京都守護職松平容保に参預を命じた。無位無官だった久光は、翌文久4年1月13日に従四位下左近衛権少将に叙任された上で参預に加えられた。


   1月21日、将軍家茂が参内し、参預諸侯と協力を求める勅書が下された。こうして公武合体の下で有志大名が国政に参画し新たな公議政体の確立を目指して発足した参預会議であったが、横浜鎖港問題をめぐる有志大名と一橋慶喜・幕府の対立などで、わずか2カ月で瓦解することになった。


 


   藤田 小四郎(ふじた こしろう、天保13年(1842年)元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。水戸天狗党の首領格。贈従四位。



   生涯


   常陸国茨城郡水戸(茨城県水戸市)で当時水戸藩主・徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男として生まれる。名は信(まこと)、字は子立(しりゅう)。東海を雅号とし、一時期小野贇男(おの・あやお)と変えたこともある。母は東湖の妾であった土岐さき。


   2歳の時、母さきが暇を出され藤田家を出る。原因は東照宮の例祭でさきが妾でありながら正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席したことによる。これは身分を弁えない無作法な振る舞いであると世間から見咎められ、夫である東湖も批判の対象となったことから、家内の混乱を心配した里子により放逐されたものである。


   小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。


   安政2年(1855年)、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事する。


   文久3年(1863年)3月、藩主・徳川慶篤の上洛に随従。京都では長州藩士の桂小五郎、久坂玄瑞を始めとする志士と交流したほか、公家に周旋活動を行う。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。同年5月、将軍後見職・一橋慶喜に従って江戸に下る。


   同年8月、八月十八日の政変により長州藩勢力が京都から一掃され、急進的尊攘派は衰退した。一方で孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、幕府に対して横浜港鎖港の早期実行を要求した。これを受けて幕府は鎖港交渉を開始したものの、首脳部内の意見対立も相まって交渉は遅々として進まなかった。


   元治元年3月27日(1864年5月2日)、小四郎は即時鎖港の要求・支援のため同志など60人余りとともに筑波山にて挙兵する(詳細は天狗党の乱に記述)も失敗し、越前国新保(現在の福井県敦賀市)にて加賀藩に捕縛される。






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最終更新日  2023年09月15日 08時55分03秒
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