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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月02日
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カテゴリ:中世




この間,直義は南朝と和睦したが,まもなく決裂し,7月末,危機を悟った直義が京都を出奔して,第2次分裂となった。尊氏は南朝と和議を結び,直義追討の
綸旨を得て,東国へ逃れた直義を追った。


直義は上杉憲顕らに迎えられ鎌倉で政務をとったが,翌年2月死んだ。尊氏と直義の対立は,直義の死によって終ったが,直義の養子直冬 (→足利直冬 ) を中心とした直義党が残っており,南朝の動きとあわせて内乱は持続】


 


正平6年/観応2年(1351年)1月、関東管領高師冬が直義と対立して関東を追われ甲斐須沢城(現・山梨県南アルプス市大嵐)に逃ると、これを包囲して自害に追い込んだ。


この様子は、市河氏の惣領・市河頼房の代理として直頼軍に加わった市河泰房(頼房の甥)が、師冬を攻め落とした軍功により直頼の証判を得たことを示す「市河頼房代泰房軍忠状」や、同じく市河氏一門の市河経助が証判を得たとする「市河経助軍忠状」(ともに同年3月)で確認することができる。


また、同年には直頼に属した同じく市河氏一門の市河親宗(かつて高師泰に属していた)らと共に、守護・小笠原政長を攻め舟山郷(現在の長野県千曲市小船山あたり)にあった守護館を放火し、さらに守護代小笠原兼経らの守る筑摩郡放光寺を攻めたとの史実も伝わっている。


この時、政長は尊氏の命で上洛しており、留守であった。


その後まもなく、師冬の養父の高師直など、直義派の政敵であった高氏一族がほぼ殺害されたことで尊氏・直義両派に平穏が戻ったかのようにみえたが、同年6月には直頼の代官であった祢津宗貞(禰津宗貞/根津氏)が、北朝方(尊氏派)についていた高梨経頼高梨氏)・小笠原為経小笠原光宗(ともに小笠原氏一門)と野辺原(現長野県須坂市野辺)や善光寺横山城(現長野市城山)にて一戦を交えるなど、信濃国内では南北朝の対立が続いた。


直義が守護の任免権も掌握すると、直頼が信濃守護に補任され、直義が北陸に逃亡するまでその地位にあった。


守護代として宗貞が幕府から水内郡太田荘における信濃島津氏・高梨氏の地頭職権の濫用を停止させるよう命じられている。


一方京都では、尊氏・義詮父子が南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出され、尊氏・直義両派は再び分裂、義詮の補佐として一旦政務に復帰していた直義は京都を脱出する。


最終的には北陸を経由して鎌倉へ向かうことになるが、同年月晦日の直義の北国落ちに際しては「諏訪信濃守」が付き従っており、『太平記』でも途中「無二の味方」として諏訪氏を頼り、信濃に立ち寄ったとしている。


直義死後から室町幕府に恭順するまで


正平7年/文和元年26(1352)に直義は鎌倉にて急死するが、その後も旧直義派および南朝方の姿勢を変えず、信濃に拠っていた後醍醐天皇の皇子、信濃宮宗良親王に従って、笛吹峠小手指原などで尊氏軍と戦う(武蔵野合戦)がいずれの合戦でも敗北。更にその後の正平10年/文和4年(1355)8月の桔梗ヶ原の戦い(於:桔梗ヶ原)でも北朝・尊氏方の武田信春、小笠原政長・長基父子らに敗れ、信濃国内における南朝勢の衰退は決定的となっていた。


 


「武蔵野合戦」(むさしのかっせん)は、南北朝時代観応の擾乱直後に発生した合戦正平7年/文和元年(1352)閏2月から3月にかけて、武蔵国相模国(現、東京都埼玉県神奈川県)の各地において、足利尊氏北朝方の軍勢と、新田義興新田義宗南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。


正平6年/観応2年(1351)、観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。


尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。


直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。


正平7年/文和元年(1352)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都鎌倉の同時奪還を企てる。


閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王信濃国諏訪直頼らと挙兵した。


新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。


尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏218日に鎌倉を占領したが、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利勢と合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。


尊氏は、武蔵国石浜東京都台東区。場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。


閏2月28日、足利勢と新田勢は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原埼玉県所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。


敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。


一方、新田義興・脇屋義治・北条時行は三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉を占領したが、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため、3月2日鎌倉を脱出し、相模国河村城神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。3月12日、尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353龍ノ口にて処刑された。】






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最終更新日  2024年04月02日 07時31分06秒
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