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カテゴリ:戦国
1、 「伊達氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・2 2、 「鎌倉から江戸初期まで」・・・・・・・・・・・・・4 3、 「戦国時代から幕末」・・・・・・・・・・・・・・21 4、 「伊達初代から三代まで」・・・・・・・・・・・・25 5、 「伊達晴宗から輝宗」・・・・・・・・・・・・・・36 6、 「伊達政宗葛藤編」・・・・・・・・・・・・・・・48 7、 「伊達政宗領土拡大遍」・・・・・・・・・・・・・78 8、 「小田原合戦から慶長出羽合戦」・・・・・・・・・89 9、 「伊達政宗成熟遍」・・・・・・・・・・・・・・105 10、「伊達政宗の晩年」・・・・・・・・・・・・・・116 11、「伊達成実」・・・・・・・・・・・・・・・・・128 12、「伊達綱宗」・・・・・・・・・・・・・・・・・133 13、「伊達宗勝・宗紀・宗城・慶宗」・・・・・・・・142 14、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・143
1,「伊達氏の出自」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。 出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。 ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。 また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。 また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。 初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。 伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。 戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興し ていった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。 天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。 しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。 さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。 政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。 それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。
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最終更新日
2024年04月04日 06時12分26秒
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