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カテゴリ:中世
佐々木 信綱」(ささき のぶつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。左近将監。右衛門尉。近江国守護。佐々木四郎ともいう。佐々木定綱・四男。法名は虚仮。 養和元年(1181)頃、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として誕生。 建保2年(1214)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』にその名が見られる。承久2年(1220)7月26日、出家し経仏と号したという。 承久3年(1221)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男・重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。 これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄・広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗太郡(栗本郡)北部の地頭職を得る。 嘉禄2年(1226)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務める。続けて、藤原氏である頼経の姓を源氏に改姓する為に関白近衛家実に報告をしてから奈良の春日大社に赴くが、春日大明神の託宣が出て頼経の源氏への改正は認められなかった。 文暦2年(1235)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張国長岡庄の地頭職を得る。 仁治3年(1242)3月6日、死去。享年61才。蒲生郡にて老曽明神として祀られたという。 子孫 近江は四人の息子に分割され、長男・重綱が坂田郡大原荘を、次男・高信が高島郡田中郷を、三男・泰綱が宗家と江南にある神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡の6郡を、四男・氏信が江北に在る高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡を分けて継いだ。彼らの子孫はそれぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となった。
「佐々木 氏信」(ささき うじのぶ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木氏支流京極氏の始祖。京極氏信とも。鎌倉の桐ヶ谷にも住しており、桐谷氏とも呼ばれた。 承久2年(1220)、後に近江国守護に任ぜられる佐々木信綱と、その正室である2代執権・北条義時の娘との間に四男として生まれたとされる[7]。 仁治3年(1242)に父が死去し、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京都の京極高辻の館を継ぐ。 これにより子孫は後に京極氏と呼ばれるようになり、江南と京都の六角堂近くの館を継いだ三兄・泰綱は佐々木本家を継ぎ六角氏の祖となる。 長兄・重綱と次兄・高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、大原氏・高島氏の祖となる。 文永2年(1265)に引付衆、翌年には評定衆に加わり、弘安6年(1283)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している。 永仁3年(1295)5月3日、死去。享年76歳。 長男・頼氏は桐谷に住み別家を立てた。次男・範頼、三男・満信は共に早世した為、四男・宗綱が家督を継ぐ。
「佐々木 宗氏」(ささき むねうじ)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。佐々木氏支流京極氏4代当主。京極宗氏とも。 鎌倉幕府の有力御家人・佐々木満信の嫡男として誕生。嘉元2年(1304)に3代当主であった従兄・貞宗が嗣子を残さずに死去したため、後を継ぐ。元徳元年(1329)、死去。享年61歳。 家督は子・高氏が継いだ。和歌を好み続千載和歌集、新千載和歌集に入集している。
「佐々木 道誉」(導誉)/佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。 一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉の名で知られる。 後者の道誉(導誉とも)は法名であり、諱(実名)は高氏(たかうじ)という。鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。 初めは執権・北条高時に御相伴衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月08日 05時59分15秒
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