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カテゴリ:中世
なおこの間、正平23年/応安元年(1368)に評定衆へと加わり、従四位下大膳大夫に任ぜられ、文中2年/応安6年(1373)には父道誉が亡くなり家督を継いでいる。 天授5年/康暦元年(1379)に起こった康暦の政変では、美濃国の土岐頼康と共に政敵である頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、3代将軍・足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。 そうした中、鎌倉公方の足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許した。 高秀は京に上り服従を誓うが、翌日になって斯波義将、土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。 しかし京極氏の領国は全て取り上げられて高秀・秀満は失脚、2年後の弘和元年/永徳元年(1381)には赦されたものの飛騨一国しか返還されなかった。 その後は幕府に仕え、元中7年/明徳元年(1390)には義満の命により美濃で反乱を起こした守護土岐康行(頼康の甥)を追討した(土岐康行の乱)。 翌年の元中8年/明徳2年(1391年)に64歳歳で亡くなり、長男・高詮が後を継いだ。 高詮は同年に起こった明徳の乱で功績を上げて出雲・隠岐を取り戻し、京極氏の勢力回復に努めた。 一方、高秀の存命中に後継者と目されていた次男・秀満は、家督を継げなかったことに不満を持ったのか高詮と対立した。 応永6年(1399)に勃発した応永の乱において反幕府方につき挙兵したが、敗れた。 『応永記』では、森山で幕府方の京極勢と対峙したが小勢のため戦わず、土岐詮直へ合流しようと美濃国へ落ちる途中、垂井で土一揆に囲まれて散逸、行方知れずとなったとしている。 高秀は和歌を好み新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集に入集している。また、三男・高久には近江尼子郷を与えている。高久は後に出雲の戦国大名となる尼子氏の祖となった(一説に高久に尼子郷を与えたのは高秀ではなく、その父である道誉であるとも)。
「京極 高詮」(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。 正平7年/文和元年(1352)、京極高秀の子として誕生。正平20年/貞治4年(1365)、佐々木氏宗家六角氏頼の嫡男・義信が17歳で死去した。 京極氏は佐々木氏傍流であったが祖父・佐々木道誉の時代に隆盛を極めており、道誉の孫でもある京極家嫡男・高経(高詮)は養嗣子として六角氏に赴き、京極氏の後継者は次弟の吾全秀満とされた。 しかし氏頼は正平24年/応安2年(1369)に新たに亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、翌年には死去してしまう。 このため跡目争いが生じ、高経は管領・細川頼之が主導する幕府から亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。 しかし、僅か7年後の天授3年/永和3年(1377)に近江守護職を解かれ、高経は京極氏へと戻る。この出来事は父が後の康暦の政変で反頼之陣営に加わる原因となった。 康暦の政変においては、父・高秀は斯波義将らと共に将軍義満に強訴し政敵・細川頼之を罷免させることには成功したものの、京極氏の領国はすべて没収されてしまい、それから2年後にようやく飛騨のみ返還された。政変前後の高詮の動向は不明であるが、父や弟と行動を共にしていたものと思われる。 明徳2年(1391)、父が亡くなり家督と飛騨の守護職を継いだ。またこの年には、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が幕府に背く明徳の乱が起こり、高詮は幕府方に従軍して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には出雲・隠岐守護へと任ぜられる。 出雲へは弟・尼子高久の子・持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。 また出雲大社において当時とぎれていた祭事の三月会を復興している。応永元年(1394)から応永5年(1398年)には侍所頭人も務めており、明徳の乱に敗れ京都の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を捕らえて処刑した。京極氏は高詮の代である応永5年に侍所頭人を務める四職の一つと定められている。 この後には出家し浄高(じょうこう)と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。 しかし高詮は出家後も京極氏の実権を握っており、応永6年(1399)末に勃発した応永の乱でも幕府方の部将として活躍した。 乱後に義満から石見守護職も与えられ、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復した。 なお、応永の乱においては高詮の家督相続に不満を持っていたとされる弟の秀満が反幕府方に呼応し挙兵しているが、程なく鎮圧されて没落している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月08日 10時15分58秒
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