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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月11日
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カテゴリ:安土桃山時代




豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・
陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。


本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。


朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏広橋兼勝三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた。


交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。


講和内容は豊臣家側の条件として本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。


淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。が提出され、これに対し徳川家が秀頼の身の安全と本領の安堵。


城中諸士についての不問。を約束する事で和議は成立。


この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。


和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。


城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。


二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も破壊されている。


幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。


さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。


 


真田繁信は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる。


大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。


信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。


さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している。


さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した。


この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる。


なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、警戒していた。


冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。


そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している 


信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても、わたしの気持ちはかわりません」と立腹して対面をしなかったという。


*「真田丸」(さなだまる)は、慶長19年(1614)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城(平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)である。


豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川大和川淀川東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。





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最終更新日  2024年04月11日 07時22分10秒
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