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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月17日
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カテゴリ:安土桃山時代




これを契機として双方の後背地での動向もあり両陣営間で講和の動きが進み、
27に講和が成立し、翌日には退陣となった。講和の内容は不明だが、由良長尾両氏による小泉城攻撃以前の状況に戻すというものであったと推察されている。


合戦自体は引き分けであったが、戦後処理は北条氏の優勢に推移した。梶原政景が再び佐竹氏に服している一方、由良長尾両氏は北条氏に攻められ年内に降伏、所領を没収され柄杓山城(桐生城)などへ異動されるなど、従来の勢力圏を復活するため双方が行動した。


この事態に対して、佐竹氏傘下の国衆である真壁氏幹は激怒して佐竹義重に対して「手抜之刷、前代未聞存候」と激しく責める書状(『佐竹文書』)送りつけている。


しかしながら北条氏による北関東諸領主への個別攻撃は、それに止まらず広がりを見せた。天正14年(1586)、佐野宗綱が長尾氏との戦闘で戦死すると後継争いが起こり、最終的に北条氏忠が養子に入った。また同年、皆川広照も北条氏に降伏。下野西半は北条氏の勢力範囲となった。


佐竹・宇都宮両氏はこれまで以上に秀吉への依存を深め、東国出馬を頻りに申し入れているが、家康との講和問題や九州征伐のため再三にわたり延期された。この間北条氏は、天正14年(1587)の惣無事令以来和戦両様の構えで来たものの、家康の勧めを受け、天正16年(1588)22北条氏規上洛・秀吉会見により一応服属の意思表明をしたことによって豊臣大名として位置づけられた。真田氏との領土紛争においても秀吉の仲裁によって北条氏に有利な和解をする事になっていた。


しかし秀吉による氏政・氏直いずれかの上洛要求に応えなかったことから関係は悪化、双方戦争準備にかかる中、天正17年(1589)11月の名胡桃城占領事件を切っ掛けとして小田原征伐が勃発、佐竹・宇都宮両氏の長年の要望であった東国出馬となった。】


 


また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏岩城氏などを影響下に置き、三春城田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。


このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。


しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城下館城一帯は結城氏の所領とされた)。


義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。


 そして、水戸城江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。


佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門・与力の岩城氏らを含めると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」とも呼ばれた。


関ヶ原の戦い


慶長5年(1600)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。


戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602)の3月に義宣は上洛し伏見城徳川家康に拝謁している。


ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田仙北へと転封された。


関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。


処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、家康の側近だった本多正信正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった。


後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。






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最終更新日  2024年04月17日 08時07分22秒
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