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カテゴリ:中世
Ø 家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に仕え、昭元から信良と名を改め、信長の姉妹を正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。昭元(信良より名を戻す)の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の役では豊臣方となった。 Ø 大坂の陣での豊臣家滅亡後は讃岐国に隠棲し、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って常陸国の宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。 Ø 元勝の嫡子義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は陸奥国三春藩(宍戸から転封)の家老として仕えた。 Ø 義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と家督が継承されている。明治期の当主和元は小学校教員や巡査を務めた。 京兆家(細川本宗家)歴代当主 室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。摂津・丹波・土佐・讃岐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 Ø 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。 修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 Ø 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが生じ、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。 Ø 応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。
6「明応の政変に不審」 明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。 この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。 なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。 義材の将軍就任と義視の死 足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚は守護大名や奉公衆を率い、六角行高(高頼)討伐(長享・延徳の乱)のため近江へ親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。 義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や管領細川政元などは、堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。 しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定した。 富子は義政の御台所、義尚の生母で、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった。 将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義材の将軍就任に大きな意味を持ち[2]、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった。 この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。 貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、日野富子の信任が厚かった。また、その父・伊勢貞親は文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言したことがあり、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。 ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川御所(小川殿)を譲渡することを決めた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月20日 06時46分14秒
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