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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月20日
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カテゴリ:中世




 
日野富子も政変に関与し、政元の擁立した義遐の支持に回ったが、それには以下の理由があった。


   彼女は将軍家を代表する人物でもあり、常々義材の権力の暴走を危惧していた。父の義視が小川御所を破却した時からすでにその心配はあったが、義材は立て続けに負担の大きい外征への出兵を大名らに求めたため、大名らは次第に幕府に不満を抱いていった。


   義材がこのまま将軍であり続けたら、越前征伐をはじめ連続して外征が行われる可能性があり、大名がさらなる不満を抱くのは必至で、長年将軍家を担ってきた富子は幕府の存立に重大な危機が迫っていることを感じだと推測される。


   最終的に義材の廃立を決断したのは政元ではなく、富子であったとする説もある。


   将軍の直臣すらも義材を見捨てたのは、日野富子や政所の伊勢貞宗の影響があったからだという。


   富子は先述したように、将軍家を代表する人物でもあり、義材の将軍決定もまた彼女の支持によるものであった。


   そのため、富子が義材の廃立を決めたことは、直臣らの意思決定に大きな影響を与えたことであろうと考えられる。


   貞宗は政元と同様に基家の家臣と接触していたし、また河内遠征に従軍していた大名や将軍直臣が内容不明の謀書によって義材を見捨てたことは先にも取り上げた。また、政変の1か月前に基家に将軍擁廃立の陰謀が伝えられていたという記録があることから、貞宗は明らかに義澄擁立の事前工作を進めていた。


   貞宗の行動も義澄の擁立に大きく貢献したと推測でき、実際に義澄は貞宗に「政務を全て委ねる」と言ったほどであった。


   政元の行為は旧来の秩序が破壊されつつあったこの時代でも明らかな反逆であり、「主従は三世(前世現世来世)の契り」という言葉があるように、政元にとって主君たる義材は尊重すべき存在であった。


   だが、日野富子が将軍家という「家」に関にするこの行為を認めたことは大きく、政変に正当性を与え、結果的に大名や将軍直臣らが義材を見捨て、義遐に付く流れを形成したといえよう。


   この政変は決して政元一人で成し得たものではなく、日野富子や伊勢貞宗の協力があってこそ成し得ることができたものであった。



   影響とその後


   この政変で政元は幕政を掌握したが、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は以後、政元をはじめ細川氏の権力により支えられる事となる。


   ただし、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代の上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。


   京都に残留した幕府の官僚組織は、政元ではなく幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。


   貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。


   このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。畠山氏は政長が自害したことで尾州家が没落、政元に支持された総州家の基家が家督を継承した。


   基家はすかさず尚順が逃げた紀伊を攻めたが、これは撃退されており、尾州家と総州家の分裂は依然として解消されなかった。


   さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣・伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方の足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている。早雲は伊勢貞宗と従兄弟に当たる関係で、彼は京とも緊密に連絡を取り合っていた。


   同年6月29日夜、京の上原元秀の屋敷に幽閉されていた義材は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠に迎え入れられた。


   さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従い、正光寺を御所とした(越中公方)。


   これにより、幕府公権は二分化され、二つに分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった。


   義材は越中から政元討伐の檄を発し、これにより能登畠山氏、越前朝倉氏、越後上杉氏、加賀富樫氏などの大名が参列して忠誠を誓い、九州の大友氏をはじめとする遠国の大名も協力の意思を示した。


   細川政元はただちに越中に軍を派遣したが、同年9月上旬に越中勢との戦いで大敗北を喫し、追い払われた。


   この結果、越中とその周辺は完全に義材方となり、京の幕府は迂闊に手を出せなくなってしまった。






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最終更新日  2024年04月20日 07時00分47秒
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