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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月21日
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カテゴリ:中世




義通の命を受けて
上総国へ進出して金谷城を拠点として正木氏をはじめとする房総半島水軍を手中に収めた。


また、次の義豊の代にはその命を受けて鎌倉武蔵品川を攻撃して後北条氏と戦っている。だが、次第に家中における発言力を増して義豊の地位を脅かす存在となり、また後北条氏と通じているとの風評が流れるに至った。


このため天文2年、義豊は機先を制する形で実堯とその腹心の正木通綱稲村城に呼んでこれを殺害した。これを稲村の変(天文の内訌)という。これをきっかけに実堯の嫡男・義堯を押し立てた上総の里見氏勢力が叛旗を翻し、翌年には義堯が義豊を殺害して家督を奪った。


古くは、義通が若くして死亡して義豊が幼かったために義豊成人までの間だけ実堯が家督を預かっていたのを、成長した義豊が無分別にもこれを逆恨みして叔父を殺害したとされていた。


しかし、近年では義通は長命を保って成人した義豊に家督を譲って隠居したと考えられており、義豊も稲村の変当時には既に壮年であったと考えられている。


このため、こうした旧説は義堯の家督継承後に実堯系の家督継承の正当性を強調するために創作された話であると考えられており、今日では里見氏当主としては勿論、義豊の陣代であったとする見方も否定されている。


 


「里見 義豊」(さとみ よしとよ、?天文3年153418))は、戦国時代大名安房里見氏の第4代当主。里見義通の長男。左馬頭。高巖院殿長義居士。子に小原貞通、里見家宗がいるとされ、家宗は越後里見氏の祖となったという。


孫に義宗、中澤忠宗(家宗の子)、曾孫に宗基、中澤忠重(義宗の子)、玄孫に宗助、岡藩士の中澤義虎(宗基の子)がいるという。


大永7年(1527年)12月23日、上総国菅生荘矢那郷の大野大膳亮に対して鋳物大工職の地位を与え、自らの金属需要を充足させようとした(『大野文書』)。



従来の説


永正15年(1518)、父・義通が危篤となると家督を継ぐ。だが、義通の弟実堯が義豊15歳になるまでは陣代(後見人)として家督を預かることになった。


この頃、対岸の三浦半島に進出してきた北条氏に対抗するため、大永6年(1526)に品川鎌倉鶴岡八幡宮の戦い)を実堯とともに攻撃して当主としての器量を示した。


だが、15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかった。また、重臣正木通綱(時綱)が実堯と接近して家中で大きな発言力を持ち始めた事に他の重臣の不満も高まった。


このため、天文2年義豊は稲村城の実堯と正木通綱を襲撃して殺害する(通綱は脱出したものの傷の悪化で病没したという説もある)。


だが、実堯の長男里見義堯は「仇討ち」と称して、通綱の遺児である正木時茂とともに叛旗を翻す。義豊が義堯を破ると、義堯も反撃して義豊を一時上総国内に追い払うなど戦いは一進一退だった。


だが、翌年に入り義豊は武田氏の真里谷恕鑑(信清)らの協力を得て安房国に復帰したものの、犬掛の合戦で大敗して自害に追い込まれてしまった。享年21と伝えられている(天文の内訌)。


 


6、「鶴岡八幡宮の戦い」(つるがおかはちまんぐうのたたかい)とは、大永6年111215261215)に相模国北条氏綱安房国里見義豊との間で戦われた合戦。当初里見軍は玉縄城を目標としていたが、鎌倉に突入し、兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことからこの名がある。大永鎌倉合戦(たいえいかまくらかっせん)とも。


この合戦の様子を詳しく伝えられているとされてきたのは里見氏の歴史を扱った『里見軍記』などの軍記物である。これらによれば、この戦いは里見実堯による侵攻とされてきたが、近年の里見氏に関する研究の成果によって、この戦いを主導した当時の里見氏の当主は義豊であり、その叔父である実堯はその一部将に過ぎなかった事実が明らかにされている。


それは、後の天文の内訌において、氏綱が鶴岡八幡宮に祈願した後に義豊と戦っていた実堯の子・義堯に援軍を派遣していること、その後義堯によって討たれた義豊の首が氏綱に送られた際に鶴岡八幡宮の供僧であった快元が「神罰」と書き記していることからも明らかである(もし、軍記物の記述が正しければ、実堯を討った義豊に「神罰」が下るのは矛盾していることになる)。


前史


古河公方足利政氏の子で鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)の地位にあった空然(後の足利義明)が、真里谷武田氏の支援を受けて下総国小弓城に入ったのは永正14年(1517)から大永初年と推定されている。


義明は兄の足利高基が父を追って古河公方の地位に就くと、兄からの自立を図るようになり、小弓公方と称した。小弓公方の元には南総の諸勢力が結集する形となり、里見氏・真里谷武田氏・臼井氏などがこれに応じた。


一方、古河公方の元にも北総の諸勢力が結集する形となり、結城氏・庁南武田氏・千葉氏などがこれに応じた。


小弓公方と古河公方の対立の最大の焦点は関東公方の正当な継承者に関する問題であったが、同時に房総地域、とりわけ下総国の支配権を巡る対立でもあった。 


小弓公方にとっては下総一国を掌握するには本佐倉城関宿城を押さえて下総最北部にある古河公方の根拠である古河城を手に入れる必要があり、反対に古河公方にとっても下総一国を掌握するには本佐倉城・関宿城を足がかりにして下総国最南部にある小弓公方の根拠である小弓城を手に入れる必要があった。






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最終更新日  2024年04月21日 06時38分57秒
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