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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月21日
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カテゴリ:江戸時代




14、「仙台藩士里見氏」


天童頼澄は伊達政宗を頼って逃れ、天童氏は仙台藩重臣として名跡を残している。


天正10年(1582年)に里見民部が主君の上山城主上山満兼を討った際、民部は実兄の里見内蔵助[27]をともに殺害している。


里見内蔵助の子が里見元勝で、元勝はのちに叔父の一族の多くを討って仙台藩に仕えた。元勝の子・里見重勝は紀州藩に出仕した後仙台藩に仕えた。


水戸藩士里見氏


出羽里見氏の傍流は、水戸藩に仕えた。


江戸時代初期、最上家(山形藩)は最上家親の代に発生したお家騒動最上騒動)によって、江戸幕府の命により改易された。


最上家臣であった里見義親加賀藩主・松平筑前守に召抱えられたが、かつての主筋の山野辺義忠(最上家親の実弟)が水戸藩に仕官したのに伴い、加賀藩を辞して自らも水戸藩に再仕官することとなった。


この義親の子孫に幕末の志士・里見四郎左衛門親長がいる。親長は戸田三衛門忠之の娘と婚姻し、嫡男・里見親賢が生まれる。


親長・親賢親子は、縁戚である水戸藩家老戸田忠太夫安島帯刀兄弟とも関係が深く、尊皇攘夷に邁進、天狗党の乱にて諸生党の攻撃を受けて討ち死にしている。


このほか、水戸藩に仕えた里見氏には、前述の安房里見氏の傍流(里見義堯の五男の系統)がある。


里見 四郎左衛門(さとみしろうざえもん)は、幕末の尊王志士。代々水戸藩士の家に生まれる。当主は里見四郎左衛門の名を襲名した。


里見四郎左衛門親長。親候の子。水戸藩旗奉行。元治元年、諸生党と戦い討ち死にした。


里見四郎左衛門親賢。前項親長の子。水戸藩歩行頭。元治元年、松平頼徳を奉じて諸生党と戦うが敗れて降伏し、翌年切腹となった。位階贈正五位



家系


水戸藩士。かつての最上氏旧臣だった系統であり、代々「四郎左衛門」を襲名する。禄高は2百石。


四郎左衛門の祖は清和源氏新田氏里見氏の一族の里見義成の四男・義直を初代とする家系である。出羽国に下り、天童氏次いで最上氏に臣従した。里見義親山形藩主・最上家親に仕えた。


その子、里見四郎左衛門親宗の代になって最上家が改易となると、松平筑前守(前田利常)を経て旧主・最上家親の実弟にあたる山野辺義忠水戸藩の家老として召抱えられると、これを慕って水戸藩に仕官したのが始まりとされる。


下記系図には、水戸藩士初代四郎左衛門親宗とその父義親までを掲載。詳細は水戸藩士 里見氏の項を参照されたし。


里見掃部義親-里見四郎左衛門親宗-里見四郎左衛門親広-里見四郎左衛門親信-里見八左衛門親善-里見四郎左衛門親和-里見四郎左衛門親候-里見四郎左衛門親長里見四郎左衛門親賢-里見勘之介親儀-里見長四郎



里見四郎左衛門親長


幕末の水戸藩士で尊王の志士。天狗党の乱で敗北し自害。


寛政6年(1794) - 元治元年(1864)。初名を長八郎、雅号を松軒という。


父は里見四郎左衛門親候、母は信木厚の女。妻は戸田三右衛門忠之の女。戸田忠之の女との間に、嫡男親賢と一女を儲ける。後に別離。後室との間に里見平三が生まれる。


文政8年(1825)、家督を継いで大番組となった。その後中槍奉行、旗奉行と職責を果たし安政4年(1857)に致仕する。元治の役で一族を率いて参軍し、家を引き払って水戸城の東にある栗崎村の民家に隠れていたが、諸生党の追手に探知され、後妻多免子を手にかけ切腹して果てた。茨城県水戸市松本町常磐共有墓地享年71。室 石原氏とも靖国神社合祀。



里見四郎左衛門親賢


幕末の水戸藩士で尊王の志士。父と同様、天狗党の乱において天狗方に加わり、神勢館の戦いにおいて敗れ降伏、切腹する。贈正五位。


文化12年(1815) - 慶應元年(18654月29)。初名は里之介、鉄之介、直之進、元服家督と改名。家督を継いだ折は四郎左衛門を襲名する。父は里見四郎左衛門親長、他に同母妹、異母兄弟がいる。母方の叔父には戸田忠太夫安島帯刀、従弟には戸田銀次郎がいる。


天保9年(1838)、藩主・徳川斉昭により新設された床机廻に任ぜられ、同12年(1841)5月、大番組となる。弘化元年(1844)には小納戸役に昇任し、嘉永3年(1850)武芸指南の功で白銀を賜る。


安政元年(1854)、家督を継いで四郎左衛門を襲名し、町奉行を拝命し尊皇攘夷派に与する様になる。同年4月、米国船舶の横浜入港時には床机廻を率いて江戸の水戸藩邸を守衛する。文久元年(1861)、東禅寺事件に際して領内取締不行届きで免職するが、同2年(1862)6月に歩行頭として再勤となった。


元治元年(1864年)、天狗党の乱が起きた際には、藩主徳川慶篤が水戸藩の鎮定のため、支藩である宍戸藩主・松平頼徳を目代として派遣したが、これに尊王派が従軍したため、水戸城に拠る諸生党が頼徳の入城を拒否する。親賢は天狗党の総督であった榊原新左衛門の幕下として頼徳一行に従軍していたが、水戸城下についた折、頼徳の入城拒否を発端として頼徳・天狗党と諸生党との間で神勢館の乱が起きるが、幕府軍が諸生党に加担したため、頼徳は幕府に降伏してしまう。






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最終更新日  2024年04月21日 08時33分36秒
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