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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月26日
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カテゴリ:中世




大町桂月
は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。


全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。


北畠親房常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。】


親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。


 


4、「北畠 親房」(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。


北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門であり、正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆が弁官となったことに憤激して職を辞したという(『公卿補任』)。


延慶元年(1308)11月、非参議従三位として公卿に昇進。延慶3年(1310年)12月、参議に任じられ、翌応長元年(1311)7月に左衛門督に任じられ検非違使別当を兼ねた。同年12月、権中納言に昇進する。


後醍醐天皇が即位すると、吉田定房万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得た。


そして後醍醐天皇の皇子世良親王乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当を兼ね、正中2年(1325年)1月には内教坊別当をも兼ねて、ついに父祖を超えて源氏長者となった。


元徳2年(1330年)、世良親王の急死を嘆いて38歳で出家し、いったん政界を引退した。法名は宗玄。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。


鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、必ずしも表舞台に立ったとは言えない。


奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。建武2年(1335年)に北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏が鎌倉でそのまま建武政権から離反、こののち西上して京都を占領すると、建武3年(1336)1月親房は尊氏を討伐するために京へ戻り、新田義貞楠木正成とともにいったんは尊氏を駆逐する。


しかしに九州に落ち延びた尊氏は急速に体制を立て直し大軍を率いて西上、これを迎え撃つ義貞・正成の軍勢を同年5月湊川の戦いで撃破すると進んで京都を再占領、比叡山に逃れた後醍醐天皇は再度の退位を迫られる。


しかし後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野に行宮を開くとそのまま南朝方に合流、尊氏によって擁立された光明天皇北朝方に対抗する。


延元3年/暦応元年(1338年)5月に顕家が堺浦で戦死し、同年閏7月には義貞が越前国灯明寺畷で討ち取られると、南朝方の総司令官となった親房は伊勢国度会家行の協力を得て南朝方の勢力拡大を図る。


ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになるが、家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的だったといわれている。


こののち関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあって両親王とは離散し、同船していた伊達行朝中村経長等と共に常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城(現在の茨城県稲敷市)の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(現在の茨城県つくば市)へと移る。


陸奥国白河結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけたが、宇都宮公綱芳賀高貞が北朝方に味方したため伊達行朝中村経長を遣わし芳賀高貞・高朝の父子を討ち取った。


この時期に『神皇正統記』と『職原鈔』を執筆したといわれている。


興国元年/暦応3年(1340)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、小田氏に見限られた親房は関宗祐の関城(現在の茨城県筑西市)に入り、伊達行朝中村経長を始め、行朝、経長と同族の伊佐城(筑西市)の伊佐氏、大宝城(現在の茨城県下妻市)の下妻氏など常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。


親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、興国4年/康永2年(1343)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。


これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。






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最終更新日  2024年04月26日 05時57分10秒
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