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カテゴリ:中世
武将間の対立 一度直義に与した武将達と、一貫して尊氏に従った武将達との間で派閥が現れ、守護大名を勢力の中心として2つの派閥が拮抗する情勢が生まれた。義詮の晩年の頃には、この対立が顕著になっていた。】
その後、多気に帰って兵力を休め、回復の機会を窺っていたことであろう。かくして兵勢はまたもや盛んとなり、同年10月には阿坂城に来攻した細川元氏・土岐頼康らを迎撃。翌正平8年/文和2年(1353)2月には伊勢から兵を率いて大和宇陀郡に進出し、その先陣は南都に達したという。同年6月、京都回復の作戦に顕能自らは参加していないが、背後には伊勢の軍事力が関与していたと見て大過ない。 北勢・伊賀へ進出 これ以降は史料に乏しく、顕能の活動について多くを知ることは難しい。ただ、伊勢の動向にしばらく変化が見られないことからして、顕能は依然伊勢国司として南朝の藩屏を確保していたのであろう。 近世に成立した南朝関係の軍記は、晩年に至るまで以下のような戦歴を伝えるが、これらの真偽の程は明らかでない。 正平10文和4(1355)5月六角氏が伊賀に侵入するも、これを防いだ春日部高貞が戦死したため、自ら数千騎を率いて六角勢を退ける。 正平15年/延文5年(1360)2月足利義詮・畠山国清が行宮に来攻したため、3000余騎を率いて伊賀・大和の国境に出陣し、敵の糧道を断つ。 正平24年/応安2年(1369)9月土岐頼康が伊勢に侵入したため、子の顕泰を大将としてこれを退け、三重郡に諸城を築いて要害の地とする。 建徳2年/応安4年(1371)6月安濃郡に出陣して土岐康行を破り、同郡を領する。 建徳3年/応安5年(1372)3月朝明郡に出陣して仁木義長を破り、同郡を領する。(以上、主に『桜雲記』・『七巻冊子』・『伊勢之巻』などによる) 正平16年/康安元年(1361)敵対していた伊勢守護仁木義長が南朝に降ると、顕能はこれを機に北勢・伊賀方面へ進出したが、義長を美濃から攻める土岐氏とも衝突し、伊勢は北畠・仁木・土岐の三者が鼎立する情勢となった。 また同じ頃、伊勢在国のまま内大臣に任じられたらしく、このことは『古和文書』にある正平24年(1369)10月3日付の御教書に「北畠前内大臣家」と見えていることからも裏付けられよう。 伊勢国司としての活動の終見は、『南狩遺文』にある建徳3年(1372)4月日付の御教書だが、『桜雲記』・『南方紀伝』などによれば、顕能は文中元年(1372年)従一位・右大臣に叙任され、天授2年(1376)二男顕泰に国司職を譲ったとされるので、晩年は伊勢経営から引退して吉野に伺候していた可能性もある。 『南朝公卿補任』によれば、天授5年(1379)東宮傅となり、翌年出家したとあるが、確実でない。 顕能が薨去したのは、『桜雲記』・『南方紀伝』によると、弘和3年/永徳3(1383)7月のことである。 その根拠は明らかでないが、同年冬には強硬派の長慶天皇から和平派の後亀山天皇への譲位が行われているので、南朝の柱石であった顕能の死は9年後の南北朝講和へ向けて舵を切る契機となったのかも知れない。享年は58とも伝え、一説に臨終に際して准后宣下を受けたという。終焉の地は多気であろう。 人の兄と同様、南朝護持のため戦闘に明け暮れた生涯を閉じた。葬地は多気金剛寺(『伊勢之巻』、正しくは金国寺か)や室生寺(『北畠家譜』)と伝える他、津市美杉町下之川にある五輪塔跡(塚原中世墓)を墓に比定する伝承もある。 なお、公家らしく歌人としての一面もあり、『新葉和歌集』に18首入集した「入道前右大臣」とは顕能に比定されるのが古来通説である。 全て題詠か題知らずの歌で、歌会に参加した形跡のないことは、顕能が天皇に近侍せず、長く辺地にあって藩屏を全うしたことを窺わせる。 特に「いかにして伊勢の浜荻吹く風の治まりにきと四方に知らせむ」(雑下・1246)の1首は広く知られており、顕能を祀る北畠神社にはその歌碑がある。また、『新続古今和歌集』にも読人不知として1首入集する。
6,「北畠 顕泰」(きたばたけ あきやす)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿・武将。右大臣北畠顕能の二男。父から伊勢国司を継ぎ、南朝方として多気を拠点に活躍したが、南北朝合一後は室町幕府に帰順した。 『南方紀伝』によれば、天授2年/永和2年(1376)に権中納言・伊勢国司に任じられたと伝えるが、『古和文書』にある文中2年(1373)9月8日付の御教書写が顕泰の発給に係るものとすると、当時既に国司を継いでいた可能性も否定できない。やがて正二位・権大納言に至り、右近衛大将を兼任する。 元中6年/康応元年(1389)3月、北伊勢に進出し、武家方の一色詮範・仁木満長らと交戦。 この年には大和宇陀郡を攻略したというが、先の元中4年/嘉慶元年(1387)に同郡室生庄下司の間で起きた違乱に関して、顕泰がその調停に介入していることから、当郡は元来北畠氏の勢力圏にあったと考えられよう。 元中9年/明徳3年(1392)の南北朝合一の際に講和を受諾した形跡はなく、幕府に対して抵抗を続けたとみられ、翌明徳4年(1393)1月に伊勢鈴鹿郡で土岐康政と交戦してこれを破った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月26日 07時25分21秒
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