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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月03日
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カテゴリ:安土桃山時代




加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。


そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。


尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。


こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。


2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。


2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。


翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。


このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。


次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。


しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。


その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。


またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。


4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸溝江長逸溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。


4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。


5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。


こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。


結果・影響


この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏武田氏長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。


ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。


下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。】


 


天正7年(1579)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。


※「安土宗論」(あづちしゅうろん)は、1579(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗法華宗宗論安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念貞安洞庫)等と、法華僧(日珖日諦日淵)等の間で行われた。


法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。


信長公記』等に依ると、1579(天正7年)5月中旬、浄土宗浄蓮寺霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。


そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。


説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。


法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺日珖、常光院の日諦、久遠院日淵妙顕寺の大蔵坊、の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。


そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。






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最終更新日  2024年05月03日 12時39分54秒
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