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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月21日
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カテゴリ:安土桃山時代




戦後、勝成は
板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。また重昌の息子・板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの宇多国房の刀を与えた。


また黒田家臣の郡正太夫(郡宗保の後継)の活躍を称えて盃を与えたり、黒田一成黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した記録が残っている。


なお、島原の乱は幕府に配慮して軍功を記すことが憚られたため、勝成は幕閣首脳に大きな不満を持ち隠居を決断した。


隠居・最期


島原の乱の翌年、寛永16年(1639)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎と号する。


しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。


寛永20(1643)、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644)、法躰となり宋休と号す。


慶安4年(1651)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。


神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。


大正8年(1919)、従三位を追贈された。



人物・逸話


慶安3年(1650)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている


水野時代の福山藩は、表石高10万石なのに対して、実質15万石とか30万石といわれるように大変豊かだった。


しかし、阿部氏時代の福山藩は、水野時代の七割の領地しか与えられておらず、表石高10万石なのに対して、実質も10万石であった。


そのためどうしても水野時代よりも税金を高くしなくてはならず、水野氏の治世を懐かしむ領民の扱いに苦慮する。


そこで水野氏の治世を辱めるべく「五霊鬼」や「お糸伝説」といったデマを流す。後年、阿部氏の治世が終わると、福山市民はこれらの悪評を払拭して、水野勝成を福山開祖として慕うようになる。


 


水野諸家(戦国期)


水野家は戦国期の尾張三河に於いて織田氏、松平氏と並ぶほどの大豪族であったわりに資料が少ないが、これは上記の佐久間信盛の讒言による水野信元誅殺による一族離散のおりに多くの資料が散逸してしまったためであると考えられる。


また「刈谷市誌」が主張する刈谷水野家なる家の存在は、


  於大が松平家を離縁となったあとで緒川ではなく刈谷に住したこと、


  緊迫した桶狭間の戦いの中で水野信近が刈谷城に率いた軍勢があまりにも少なく一家の主としてはありえない状況で、伝承される通り城代であったと考えられる、などからその主張に無理がありすぎると言わざるを得ない。 『寛政譜』では以下のごとくである。


 


5、「緒川水野家」


『寛永系図』も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。ただし「清忠」の没年の記載がない。 「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。


『寛永系図・水野-坤』で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は『寛政譜』に現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。


「清信」の子「水野正重」は『寛永系図』に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。『寛政譜』によれば天文14年・1545生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7年・1602に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。


松平記』にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。『水野記』巻十五)の内容が『武徳編年集成』や『寛政譜』の記事として用いられている。


宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「水野重定」に始まって「水野穠喜」「水野穠久」「水野穠延」らの名前がみえる)。


元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後、元教は知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768徳川家治の時代に旗本となっている。


*「水野 近守」(みずの ちかもり、? 弘治2年20(1556)は、戦国時代三河国武将。藤九郎。


寛政重修諸家譜』では、水野忠政徳川家康の外祖父)の長男で、信元の兄であるが、父より早く没したとされるが、忠政は天文12年(1543)に没しており、記述が矛盾する。『士林泝洄』では、常滑水野家水野為則の次男とされている。


『刈谷市史』では、小川城主の本家を水野貞守・為則・賢勝・忠政とし、為則の次男で忠政の叔父にあたり、刈谷に分家したとする。また、子に守忠があったとし、守忠の養子に忠政の3子・信近が入ったという(『刈谷市史』)。


永正14年ごろから10年間ほどは刈谷を守備していたらしい。昵懇だった連歌師宗長が、刈谷に来訪した際に近守を訪ねたりしており、連歌に通じた教養人であったようである。


しかし、その他の具体的な行動については不明である。






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最終更新日  2024年05月21日 07時41分21秒
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