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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月26日
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カテゴリ:安土桃山時代




*「諏訪 頼忠」
(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。信濃諏訪藩の基礎を築いた。



武田家、家臣時代


信濃国諏訪氏の一族。天文11年(1542)6月、諏訪氏の当主で、頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国武田信玄の諏訪侵攻で自害する。


父・満隣は、高遠頼継矢島満清らが諏訪大社上社の諏訪大社大祝(おおほうり)の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸(虎王丸、又は長岌)を擁立した。


その後、満隣の動向は不明[5]。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている。


諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年(1542)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。


『当社神幸記』によれば、天文16年(1547)1月11日時点で「頼忠」を名乗っている。


永禄7年(1564)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている。


永禄8年(1565)12月・永禄9年(1566)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している。


天正6年(1578)・天正7年(1579)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。


天正10年(1582)、織田信長甲州征伐武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。



北条家、家臣時代


信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[2]北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。し


かし同年12月、酒井忠次小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦[2]の形で臣従する事となる。


翌天正11年(1583)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった。


 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵国比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。


文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた。


「諏訪 頼水」(すわ よりみず)は、安土桃山時代江戸時代前期の大名信濃諏訪藩初代藩主諏訪頼忠長男


天正5年(1577)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。


天正18年(1590)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。


その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。


その功績により、戦後の慶長6年(1601)10月、信濃国高島2万7000石へ復帰を許された。


第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。


慶長19年(1614)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。


頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。


元和2年(1616)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。


寛永11年(1634)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。


寛永17年(1640)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641)に72歳で死去した。



人柄


頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民(江戸時代の年貢率の一つ。その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、3割を農民の所得とするもの)のせいで荒れ果てていた農地から逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力し、家臣や領民に人気があった。


性格は、頼水の剛毅(意志が強固で気力があり、何事にも屈しないこと)さを示す逸話として、永明寺事件がある。頼水の末娘亀姫が頼水にあてた書状(嫁ぎ先で起きたトラブルを告げ口)を、使いの下男が途中でとなりの下男と喧嘩し、衣之渡川へ捨てられてしまった。


となりの下男は後難をおそれて 、諏訪氏の菩提寺である永明寺に逃げ込んだ。頼水は罪人を引き渡すように命じたが、僧侶は治外法権特権を楯にして引き渡さなかった。


そこで業を煮やした頼水は、寺を焼いて罪人を捕まえ首を刎ねた。この時に匿った僧侶も有無を言わせずに処刑したと言われている。織田信長比叡山焼き討ち (1571年)を思わす苛酷な事件であった。






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最終更新日  2024年05月26日 08時33分51秒
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