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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月28日
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カテゴリ:安土桃山時代




小山田信茂の投石隊


三方ヶ原の戦いでは武田家臣の小山田信茂投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方原における投石隊に関して、『信長公記』諸本では武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 300人の投石部隊が礫(つぶて)を打ったと記している。


一方、『三河物語』でも武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率いられていたとしている。


これらの史料では投石隊を率いたのが小山田信茂であるとは記述されていないが、江戸時代には正徳4年(1714)の遠山信春『總見記(そうけんき)』においては信玄は信茂に先陣を命じ、それとは別に「水役之者」を先頭に立たせ礫を投げさせたと記し、これは「水役之者」を率いたのが小山田信茂であると誤読される可能性が指摘されている。


1910明治43年)には陸軍参謀本部編『日本戦史 三方原役』においては信茂が投石隊を率いたと記され、1938昭和13年)の『大日本戦史』では陸軍中将・井上一次が同様に投石隊を率いたのが小山田信茂であると記している。


その後、信茂が投石隊を率いた点が明確に否定されることがなかったため、俗説が成立したと考えられている[8]



逸話


現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。


浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる。


敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。


また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。


犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。


そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。


敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。


類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている。


門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。


撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。


敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。


家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる。


前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男『戦国の群像』)。史料によると内容は3つである。


「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」


「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」


「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を


掛け、本多隊の撤退を助けた」


敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。


天正8年(1580)に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。


家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備え井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。


このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった。



三方ヶ原の戦






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最終更新日  2024年05月28日 07時51分13秒
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