287479 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年06月12日
XML
カテゴリ:中世




文明9年(1477)9月22日には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国する。


そして、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、11月11日(1477)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・義材(後の10代将軍)親子は、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。


なお、能登守護の畠山義統や土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。


この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。


主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。


乱の終了後も畠山政長と義就は戦い続けていたが、山城国では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった細川政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485)に山城国一揆を起して両派は国外に退去させられた。


また、加賀では東軍に参戦した富樫政親長享2年(1488)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。


 


6、、「応永の乱と山名氏再興」


ところが、明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護していたのは他ならぬ時熈であり、時熈は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。 


応永6年(1399)に発生した応永の乱で戦功をあげて、山名氏は備後安芸石見の3か国の守護に任じられ、今度は大内氏に対する最前線を務めることになる.その結果、明徳の乱からわずか8年で6か国の守護としての地位を回復した。


また、山名時熈は幕政にも深く関与して第6代将軍・足利義教からは長老として遇された。


だが、時熈が3男の持豊を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の持熙を次期当主と定めた上、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるという事件発生している。


赤松氏討伐と応仁の乱


家督を継いだ・山名持豊(宗全)は嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で第6代将軍・足利義教赤松満祐によって暗殺されると、同嘉吉元年(1441)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。


この功績によって山名氏は、新たに備前美作播磨の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。


宗全は、城之崎城九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。


だが、先の家督継承の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取り、享徳3年(1454年)には第8代将軍・足利義政が持豊討伐の命を下すが、管領細川勝元の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾させた。


しかし、幕府に復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立する。また、足利将軍家畠山氏斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、応仁元年(1467)には応仁の乱の勃発に至った。


この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である文明5年(1473)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。


宗全の嫡男・山名教豊は山名氏を継承したものの、父に先立ち陣没した。教豊の弟のうち、山名勝豊は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、山名是豊家督をめぐり父と対立したため細川勝元の陣に加わり、東軍より安芸・備後の守護職に任じられ備後山名氏の祖となる。


*「山名 宗全」 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代武将守護大名。家系は新田氏庶流山名氏室町幕府四職の家柄で侍所頭人。但馬備後安芸伊賀播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。


家督相続


応永11年(1404年)5月29日、山名時熙の3男として生まれる。同20年(1413)、10歳で元服、4代将軍足利義持名の一字を賜り、持豊 を名乗る。


同28年(1421)12月、初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かい、翌年(1422)に京都へ戻った。


応永27年(1420)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上した。応永35年(1428)に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じた。


間もなく時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。ところが、永享3年(1431)5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されたため、永享5年(1433)に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、永享7年(1435)には父が死去、同9年(1437)には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。永享11年(1439)、正四位下左衛門佐任官し、翌年(1440)には幕府侍所頭人兼山城守護となる。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年06月12日 15時59分36秒
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.