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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月13日
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カテゴリ:江戸時代




10、「江戸時代の山名氏(但馬)」


因幡守護代山名豊定の長男山名豊数は豊定の地位を継承したが因幡の有力国人武田氏により国を追われ但馬の所領に戻った。


そこで豊数の長男山名豊宗がうまれた。豊宗は後に鳥取城主宮部長房に仕えた。主家の宮部家は関ケ原の戦い後改易所領没収となったので子孫は但馬で帰農した。


江戸時代(但馬 村岡)


因幡の山名豊国は豊臣時代は無禄であったが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康側につき、亀井茲矩の軍に加わった。山名氏は徳川氏とおなじく新田一族に繋がるということもあり、大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格の旗本に列せられた(江戸幕府の正式な家譜では松平家酒井家と同格の血族とされた)。


江戸初期、但馬山名家が断絶したため、山名宗家は豊国が継承した。


江戸時代初期の山名隆豊は旗本・福島家に生まれ、福島正則の曾孫にあたる。のち山名家の養子となった。


第8代将軍徳川吉宗時代の当主山名豊就山名豊政の孫)は徳川吉宗の信任を得、大番頭を、その後旗本としては異例の大名職である寺社奉行に任じられ、因幡守護山名氏の後胤として縁のある因幡守を称するなど、山名一族の長者として山名家の名を高めた。


江戸時代中期の当主山名義徳は九州の筑後柳川藩の藩主立花貞俶の子として生まれ、山名家の養子となった。


江戸後期の当主 山名義蕃越前鯖江藩の藩主間部詮茂の子として生まれ、はじめ詮量と名乗った。のち山名義方の養子となり義蕃と改名し、1821年山名家を継承した。義蕃は、1818年まで、甥の間部詮勝老中在職期間: (1840~1843)(1858~1859)の後見役を務めていた。


幕末の動乱では、山名家は早い段階で新政府側に従った。明治2年(1869)、山名義済は1万1000石への高直しが明治政府に認められ大名と認定され、新たに但馬村岡藩を立藩した(いわゆる維新立藩)。


その後明治4年(1871)廃藩置県となる。明治17年(1884)華族令の公布にともない、山名家は男爵を授けられた。


*「山名 堯熙」(やまな あきひろ / たかひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将


但馬の戦国大名時代


但馬国大名山名祐豊の三男として誕生。長兄・棟豊次兄・義親の後を受け、山名氏を継承した。


長命であった父・祐豊との共著の文書が多く残り、家督継承後も隠居の父の威厳が強かったと思われる。


父・祐豊は、当初は但馬にまで侵攻した織田氏との抗戦後に織田方に属していた。天正3年(1575)に重臣・太田垣氏らが毛利氏吉川元春と和睦してしまったため、織田信長から織田氏に離反し毛利氏についたとみなされ、天正8年(1580)に信長から中国地方攻略を命ぜられた羽柴秀吉に居城の有子山城を攻められ降伏した。父の祐豊は開城後、まもなく死去する。


豊臣家家臣時代


父と意見の合わなかった堯熙は開城前に隣国の因幡国へ逃れた。羽柴氏の陣を訪問したところ、秀吉に請われ家臣となる。天正8年(1580年)には因幡八頭郡に領地を給された。


羽柴家から市場城主に任ぜられ、この城から山名豊国らの籠る鳥取城攻めに参加している。鳥取城が落城し、因幡平定が終了すると馬廻衆(親衛隊)の一人に加えられたという。


天正10年(1582)には播磨国加古郡に転封となり2000石余を領した。秀吉の晩年に御伽衆の一人に加えられていたが、秀吉死後は子・堯政と共に豊臣秀頼の傍近くに仕えたという。


堯政と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範や河内守護家の畠山政信らもいた。慶長17年(1612)9月28日にはさらに摂津国能勢郡与野村に596石2斗が秀頼より加増されている。


大坂の陣後


慶長20年(1615)の大坂夏の陣にて豊臣氏は滅亡。この戦いにて息子の一人である堯政も父に先立ち戦死した。


堯熙は大坂の陣後は京都六条の屋敷にて閑居したともいわれている。没年および墓所については諸説有る(後述)。


子孫は地方の藩の藩士になったほか、徳川将軍家の幕臣である清水氏の養子になった子孫がある。



異説


寛永諸家系図伝』では「堯熙 生国 但州。出石の城に住す。秀吉の代にいたりて、但馬を去って浪人となる。」となっているが史実とは異なる。


寛永4年(1627年)に死去。法名は円成院殿一翁紹仙居士。 墓は東林院内、従兄弟である山名豊国の墓の左隣にあると言う(諸説有り)。


閑居の間には山名豊国の扶助があったとされるが、実際には父・祐豊晩年の時代にすでに有力家臣団は分裂、離反していた。清水正親(しみず まさちか)も天正18年(1590)から徳川家臣となっていた。


堯煕の亡くなった嫡男の山名堯政には幼い山名煕政という息子がいた。堯煕は、この煕政を旧但馬守護山名家の後継者にさせることを嘱望していたとされている。


豊臣方に味方した人物の子としては徳川家に仕えることが難しいという理由で幕臣(旗本)となっていた清水正親が自ら養子に引き取ることを願い出たのが認められ、煕政は正親の養子・清水恒豊(つねとよ)として幕臣に列することなった(山名豊国の計らいがあったといわれる)。以降は御家人や旗本として続いた。】






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最終更新日  2024年06月13日 06時11分42秒
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