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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月17日
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カテゴリ:大正・昭和



鉄のカーテン(てつのカーテン、英Iron Curtain)は、冷戦時代のヨーロッパにおいて東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩である。同じく冷戦による分断の象徴として有名なベルリンの壁とは異なり、物理的な構造物のことではない。


イギリスのウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトン(英語版)のウェストミンスター大学(英語版)で行った演説[1]の中で、下記の演説をしたことにちなむ。


米ソ冷戦の緊張状態を表す言葉として盛んに用いられた。


その後、ヨシップ・ブロズ・チトーが指導していたユーゴスラビア、またアルバニアが社会主義国でありながらも東側陣営から離脱して非同盟の動きを見せたり、ドイツの東西分裂により生まれたドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足後に東側陣営へ組み入れられるなどして、境となる線は何度か変化した。


有名になったのは上記のチャーチル演説以降であるが、ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスがこの1年前に、同様の言葉を雑誌に寄稿した論文に用いたり、日記にしたためたりしている。またさらに遡ること15年、ソビエト連邦の作家レフ・ニクーリンが著したエッセイの中にも、ヨーロッパの東西陣営の緊張を表す言葉としてこの言葉が登場している。


この「鉄のカーテン」は、ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなった。



ベルリンの壁


ヨーロッパで「鉄のカーテン」を象徴する出来事は、1948年6月24日のベルリン封鎖、1949年の東西ドイツ分離独立、1961年8月13日のベルリンの壁の建設である。ドイツは両陣営によって東西に分断されたため、特にカーテンの影響を受けやすい状況にあった。



「鉄のカーテン」の消滅


1989年5月、改革を進めていた時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュにより、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去された。ハンガリーの西欧復帰を目指した政策の一つであったが、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。


この報道を西ドイツのテレビ放送によって知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側に亡命できると思い、同国に殺到した。8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを経て、9月11日にはハンガリーは東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁した。


そしてこれにより、東ドイツ国民が西への出国を求めてチェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド等へ殺到、東ドイツ国内でも政府への不満と自由を求める動きからデモが頻発し、11月9日のベルリンの壁崩壊に至った。


また、東欧諸国でも民主化運動(東欧革命)が勃発した。1990年10月3日には東西ドイツが統一され、これをもって「鉄のカーテン」は消滅した。


「鉄のカーテン」消滅は、ドイツを中心とした「中欧」の概念が復活・クローズアップされることにもつながった。


サザエさん』は、長谷川町子による日本の漫画[1]。また、その主人公である「フグ田サザエ」の呼び名である。


原作とアニメでは内容が大きく異なっている事に留意する必要がある。



作品解説


原作漫画は新聞連載の4コマ漫画である(ただし、5ページほどのショートストーリー漫画が雑誌連載されており、「別冊サザエさん」に収録されている)


西日本新聞社から独立したフクニチ新聞社の整理部長牟田口宗一郎が長谷川に福岡の地方新聞『夕刊フクニチ』誌上での連載を依頼。1946年(昭和21年)4月22日から連載を始めたが、長谷川が東京へ引越しするために連載を打ち切った。連載開始当初は、台詞がカタカナで書かれていた。


漫画の舞台は博多で、サザエは独身だったが、連載を打ち切る時にサザエがマスオと結婚している(福岡時代の最終回とみられる回のオチの部分が、小さいながらも『サザエさんうちあけ話』の作者の回想で描かれている)。


長谷川の家族が東京の桜新町へ引っ越した後は、『夕刊フクニチ』で連載を再開。舞台も東京へ移り、マスオが磯野家に同居する。


掲載誌は間もなく『新夕刊』(東京スポーツの源流となる夕刊紙)に移り、『夕刊朝日新聞』(『朝日新聞』本紙とは別扱の新興紙)を経て、1951年(昭和26年)4月16日からは『朝日新聞』の朝刊に移る。


途中、長谷川の病気が理由で1951年(昭和26年)11月7日から11月14日まで休載されたが、11月15日に連載を再開、また、1953年(昭和28年)1月16日にも健康上の理由から同年3月31日まで休載されたが、4月1日に再び連載を再開。


その後はほぼ無休で連載が続いたが、1973年(昭和48年)になると毎週月曜日の定期休載に加えて短期の休みが多くなり(7月15日から8月9日、9月5日から9月9日など。理由はすべて「作者病気のため」)、1974年(昭和49年)2月21日をもって休載に入るが、その後は連載が再開されることはなかった[1]。話数は6477話に及んだ(ただし単行本未収録の話もあり、サザエさん公式HPには4コマ漫画の本数は6500回以上と記載されている)。


本作はいわゆるストーリー漫画ではなく、一貫した舞台、人物が登場する比較的独立したエピソードからなる。季節が移り変わっても登場人物達は年を取らない形式となっている。






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最終更新日  2024年06月17日 08時35分52秒
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