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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月20日
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カテゴリ:戦国





9「文禄・慶長の役の活躍


朝鮮出兵においては小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当。占領地の支配も行った。


この間、「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めいろはを教え、髪型を日本風に変えさせ召し使うなどの活動が散見する。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭らの私軍を立花宗茂とともに錦山に撃破し、両名を討ち取っている。


文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。


全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した李氏朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。


なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。


日本の天下統一を果たした天下人・秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。


秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。


明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。


双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。


戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。



名称


豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。


朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃)に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。


この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではないし、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる。


堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判したが、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。


明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。


朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている。


1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」が盛んに使われた時期もあり、「大陸侵攻」などの表現も登場した。


1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。


中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬暦朝鮮之役」と称されている。


日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。





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最終更新日  2024年06月20日 12時46分22秒
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