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カテゴリ:明治維新
盟約締結後、すぐさま土佐藩の兵力を率いて帰京する予定の後藤であったが、実際には主に2つの大きな理由によって大幅に遅れ、盟約破綻の原因となった。その理由とは、山内容堂の出兵無用論とイカルス号事件の処理による遅滞である。 7月8日に高知に到着した後藤・真辺・寺村らは、翌9日容堂に面会して薩摩藩との盟約について説明した。容堂は盟約の主旨である王政復古・大政奉還の方針に関しては大いに賛成した。しかし、そのための手段として兵力を用いることに関しては、脅迫以外の何者でもなく、不本意であるとして、同意しなかった。この容堂の出兵無用論が、後に薩土盟約破綻の最大の原因となる。 またイカルス号事件とは、7月6日長崎でイギリス船籍のイカルス号乗員の水兵が殺害された事件で、下手人が土佐出身の海援隊士であるとの容疑がかかっていた。英国公使パークスは知らせを聞くと激怒し、自ら高知へ赴いて土佐藩が犯人を隠匿しないように圧力をかけようとしたほどである。 幕府は対応に困り、土佐藩在京幹部に急ぎ帰国してパークスの応接をするよう命じたため、8月1日佐々木と由比が薩摩藩船三邦丸を借用して帰国することとなり、坂本も随行した。8月6日に土佐に到着したパークスに対して、後藤が交渉を命じられ、下手人が土佐人である証拠はないと主張して譲らず、パークスを激怒させたが、8月8日には交渉が妥結。パークスは高知を去った。 こうして事件が一段落した後の8月20日、藩主山内豊範は家臣を城に召し、最近倒幕論を唱える者がいるようだがもってのほかであり、自らの下知(指令)を待つべきであると宣言。同日夕刻容堂・豊範は重臣を召集して、大政奉還の建白について後藤と寺村が上京して従事すること、土佐藩兵の上京は見合わせることを正式に通達した(ただし容堂は出兵はしばらく見合わせるものの、将来的に(建白が拒否された場合に)出兵する可能性は否定しなかった)。この藩の正式決定を受け、後藤・寺村・真辺の3人は8月25日に高知を出発した(さらに天候不良のため出港は9月1日となる)。 薩摩藩:長州への配慮 いっぽう薩摩側の動きであるが、まず7月7日付で西郷が山県・品川宛で薩土盟約を結んだために西郷が挙兵のために長州へ降る予定が無くなったことを詫びる書簡を村田新八に託し、山口に派遣した(7月15日に到着)。長州側では予定されていた西郷来訪が無かった上に、薩土盟約を結び平和的路線をとると知らされたことで薩摩の真意を測りかね、直目付柏村数馬および参政御堀耕助を京都に派遣して情勢を探らせることとなった。柏村・御堀両名は7月27日に山口を出発、8月14日に小松帯刀邸で小松・西郷・大久保と会談する。 西郷はそこで京都で兵力を動かす時は電撃的に御所を包囲し、八月十八日の政変同様に反対派公卿を追放し、同時に会津藩邸と幕府兵屯所を襲撃、大坂・江戸でも同時に挙兵するという極秘計画を打ち明けるとともに、先述のごとく土佐との盟約による大政奉還建白は武力倒幕への大義名分を得るためのものであること、薩摩藩単独で倒幕に向かうことは決してないことを柏村に伝えた[2]。 柏村はこの返答を得た後、18日にも大坂で小松・大久保と会談し、藩主茂久の出兵上京決定を確認すると、24日に帰国し長州藩へ報告した。すなわち薩土盟約締結後、後藤が土佐に滞在していた間にも、薩摩側は長州とともに武力倒幕する路線を進めていたことになる。
しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。 慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜の刀を贈られている。明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月25日 05時47分19秒
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