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中岡慎太郎は11月17日に死去したが、中岡が奔走し締結させた薩土討幕の密約が、その後の土佐藩の将来を決定づけることとなる。慶応3年12月(1867年12月下旬~1868年1月上旬)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。 同12月28日(1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。 慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立。1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月8日(太陽暦2月1日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。 ◯薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日(1867年6月23日)に、京都の小松帯刀(清廉)寓居(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。 薩土密約は、土佐藩士が鳥羽・伏見の戦いに際し参戦する根拠となった密約であり、これを起因として始まった戊辰戦争においても、官軍側の勝利に貢献することになる土佐藩の参戦を確約した軍事同盟である。 薩土盟約は土佐藩の公議政体派が大政奉還を通して、温和な手段での同盟を薩摩藩に提起した盟約であり、薩土盟約と薩土密約とは性質が全く異なる。 密約締結までの背景 勤皇の誓い[編集] 文久2年6月(1862年7月)、乾退助(板垣退助)は、小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤皇に盡忠することを誓う。 長州の動きを洞察 文久2年6月6日(1862年7月2日)付の片岡健吉宛書簡において退助は、 長州様には今日発駕の由に御座候。長井雅楽の切腹は虚説の趣に御座候[4]。乾退助 と書き送り、国許の片岡に長州藩の動向を伝えている(長井雅楽の切腹は、翌年2月6日)。 尊皇攘夷(破約攘夷派)の退助は、幕府専制による無勅許の開港条約をなし崩し的に是認する事に繋がる長井雅楽の『航海遠略策』(開国策)を、皇威を貶めるものと警戒していたと考えられ、同時期にあたる文久2年6月19日(太陽暦7月15日)の長州藩・久坂玄瑞の日記にも、 私共一同、長井雅楽を斬除仕度決心仕候。雅楽奸妄弁智、身家を謀り、欺君売国之事、衆目之視る所にて候。此度之如く容易ならざる御耻辱を取らせ、恐多くも朝廷を侮慢し国是を動揺仕らんと相謀候事言語同断に有之申候。 彼罪科、去四月中旬言上仕候事に御座候。十九日後、日々熟慮仕候得共未だ時機を得不申候。— 久坂玄瑞 とあり、退助と同様に長井雅楽の『航海遠略策』に真っ向から反対し「朝廷を侮慢している」と糾弾している。 土佐勤王党・間崎哲馬と好誼 退助は、この頃既に土佐勤王党の重鎮・間崎哲馬と好誼を結んでいた。間崎は土佐藩田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士で、間崎の門下には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。文久2年9月に退助と間崎が交わした書簡が現存する[2]。 愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣 (文久2年)九月十七日 間崎哲馬 乾退助様 書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られたと考えられている。 青蓮院宮令旨事件 間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎、弘瀬健太と共に責任をとって切腹した。その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる(詳細は後述)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年06月26日 07時35分20秒
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