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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年06月26日
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カテゴリ:明治維新




 
乾退助と中岡慎太郎が胸襟を開いて国策を練る


   文久3年(1863年)、京都では会津藩と薩摩藩が主導権を握って八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放された。土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、乾退助(板垣退助)は藩の要職を外されて失脚。中岡慎太郎は失脚した直後の乾(板垣)を訪ねた。


   乾は中岡に「君(中岡)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君(中岡)は京都で私(退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。慎太郎は「滅相もございません」とシラを切ったが「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、乾に度胸を気にいられ「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった。その後、二人はお互いの立場を生かして尊皇攘夷を実現させるために、乾退助は藩内から(上から)の活動を行うため土佐藩の要職に復帰、中岡は藩外から(下から)の活動を行うため土佐藩を脱藩して長州へ奔った。


   中岡慎太郎の脱藩


   土佐藩を脱藩した中岡は、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった[2]


   元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷する。


   時勢論


   慶応元年冬(1865年)、中岡慎太郎が『時勢論』の初稿を著し、日本の国家としての展望と土佐藩の執るべき指針を唱導[9]


   慶応2年1月21日(1866年3月7日)薩長同盟が成立。3月9日(太陽暦4月23日)、土佐藩が、長崎のキニツブル商社からライフル銃1500挺を購入。


   西洋流軍学修行


   6月25日(太陽暦8月5日)、乾退助が、江戸での騎兵術修行を願い出て許可を得、幕臣・倉橋長門守、深尾政五郎らから西洋流(オランダ式)騎兵術を学ぶ[9]


   10月26日(太陽暦12月2日)、中岡慎太郎が『窃ニ知己ノ人ニ示ス論』の初稿を著し、在京の同志に見せ意見を仰ぐ。


   11月(太陽暦12) 中岡慎太郎が、前稿を補筆し『愚論窃かに知己に示す』とし、土佐藩の同志に軍制改革の必要性を説く。


   水戸勤皇浪士隠匿事件


   慶応2年12月(1867年1月)、水戸浪士の中村勇吉、相楽総三、里見某らが退助を頼って江戸に潜伏。江戸築地土佐藩邸(中屋敷)の惣預役(総責任者)であった退助は、参勤交代で藩主らが土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、藩に独断で彼等を匿う。のち土佐藩御用鍛冶師・左行秀、これを怪しんで藩庁に密告す。(この浪士たちが、翌年10月薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)


   孝明天皇崩御と明治天皇践祚


   12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇崩御。


   慶応3年1月9日(太陽暦2月13日)、明治天皇践祚。


   尊皇派との交流と初期兵制改革[編集]


   2月2日(太陽暦3月7日)、中岡慎太郎が太宰府において新撰組(高台寺党)・伊東甲子太郎と会す。


   2月25日(太陽暦3月30日)、土佐勤王党参謀格の大石円が、乾退助と交誼を結び御小姓組に編入され藩御軍備御用役に就任[2]


   3月12日(太陽暦4月16日)、土佐藩大目付(大監察)乾退助が、従者並びに軍服に関する規定が発布。藩兵の小銃をミニエー銃に統一。


   4(太陽暦5月坂本龍馬が、海援隊を結成する。4月23日(太陽暦5月26日)、海援隊の「いろは丸」が紀州藩・明光丸と衝突する。


   5月17日(太陽暦6月19日)、赤松小三郎が前福井藩主・松平春嶽に対し『御改正之一二端奉申上候口上書』を建白。同月、同様の意見書を薩摩藩の島津久光にも建白している。



   密約の締結


   慶応3年5月(1867年6月)江戸にいた土佐藩の乾退助(後の板垣退助)は、在京の中岡慎太郎より四侯会議の不発を嘆く手紙を受け急ぎ旅装を整え、5月18日(太陽暦6月20日)上洛。同日、京都の料亭「近安楼」で乾と福岡藤次(孝弟)、船越洋之助らと中岡が会見し、武力討幕を密談した。 翌日、乾退助は山内容堂に拝謁を請うが許可されず、この日、中岡慎太郎は薩摩藩・西郷隆盛と乾を会見させようと奔走する[9]。 慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京都の料亭・大森で再び乾と中岡が策を練り以下の書簡をしたため西郷に送った。


   一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生、吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。


   (慶応三年)五月廿一日 清之助再拝。






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最終更新日  2024年06月26日 07時39分40秒
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