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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年07月01日
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カテゴリ:戦国




6、「六角氏と三好氏の攻防」


戦国時代中頃には六角定頼(高頼の次男)が登場した。定頼は第12代将軍足利義晴(義高の子)や第13代将軍足利義輝をたびたび庇護し、天文法華の乱の鎮圧にも関与した。


近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げたのみならず伊賀国伊勢国の一部までにも影響力を及ぼしたとされ、六角氏の最盛期を創出し、阿波国から畿内に進出した三好氏と度々争った。


しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢の代においても、畿内の覇権を握った三好長慶と度々争ったが、永禄3年(1560)に野良田の戦い浅井長政と戦って敗れるなど六角氏の勢力は陰りを見せ始める。


 


「三好 長慶」(みよし ながよし)は、戦国時代武将畿内阿波国戦国大名室町幕府摂津国守護代相伴衆


細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。


その後は足利義輝、六角義賢畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。


山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、永正3年(1506)に細川澄元に属して阿波国より上洛した三好之長の曾孫。


三好実休安宅冬康十河一存野口冬長の兄。正室は波多野稙通の娘、継室は遊佐長教の娘。


三好義興の父。通称は孫次郎、官位従四位下伊賀守筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。現代の地元ファンからは、尊敬と親しみを込めての長慶を「ちょうけい」と呼ばれることもある。


出生・家督相続


大永2年(1522)2月13日、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。


三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生(三野町)では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。


父は細川晴元配下の有力な重臣で、主君・晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。


本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532)6月に殺害された。


当時10歳の長慶は両親と共ににいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。


若年期の活動


細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。


そのため天文2年(1533)20に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。


「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」(『本福寺明宗跡書』)とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて代理の者がした可能性もあるが、元長が戦死して1年で三好家の勢力は晴元と石山本願寺を和談させるくらいまでに回復していたのである。


この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・三好義興や13代将軍足利義輝、晴元の子の細川昭元などが11歳で元服しているためである。


千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。


8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回した。


翌天文3年(1534)になると本願寺に味方して11に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と戦ったが、河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。


この後の1022、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。


その後は晴元の武将となり、天文5年(1536)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を29までに全滅させた(『続応仁後記』)。


勢力拡大


天文8年(1539)15、長慶は細川晴元の供をした時、尾張国織田信秀から前年に献上されていた鷹を与えられた。


10日後の25に長慶は晴元を酒宴に招き、その席で室町幕府の料所である河内十七箇所守口市)の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。


この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。


幕府の内談衆である大舘尚氏は長慶の要求を正当としたが、12代将軍・足利義晴は近江守護六角定頼を通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。






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最終更新日  2024年07月01日 08時04分45秒
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