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カテゴリ:中世
朝雅は後鳥羽上皇の信任厚く、上皇と舅の時政と牧の方の威光を受けて京都守護・知行国主となり、将軍並の処遇となって権勢を強めていた。 比企能員の変で滅ぼされた有力豪族比企氏の縁戚児玉党など、武蔵国には比企氏と繋がりをもつ者が多く、比企の跡を勢力下に収めようとした時政の武蔵進出は、武蔵武士団の棟梁である重忠の勢力圏への進入であり、比企の乱後の戦後処理を巡って時政と重忠は対立する関係となっていたのである。 『明月記』元久元年(1204)正月18日条によると、都で「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し山中に隠れた。 大江広元がすでに殺されたとの事だ。」という風聞が流れ、広元の縁者がそのデマに騒ぎ荷物を運び出す騒動になるなど、両者の対立は周知の事となっていた。乱の背景には武蔵国の支配を巡り、留守所畠山氏と国司朝雅を背景とした時政との対立があった。 結果 北条義時は牧の方の娘婿である朝雅を担ぐ父時政を切り捨てる事によって、無実の重忠を討ったという御家人達の憎しみの矛先をかわし、混乱に乗じて朝雅と秩父一族の稲毛重成・榛谷重朝ら有力者を一掃して武蔵国の掌握に成功した。 以降、武蔵国は代々北条得宗家の支配下に置かれ、執権政治の安定化後は執権・連署が「武蔵守」・「相模守」を占める事例が増加する。北条家内では梶原景時、比企能員など強力な政敵の排除には団結していたが、先妻の子義時・政子らと後妻牧の方との間には以前から亀の前事件などの諍いがあり、共通の敵が居なくなった事、牧の方所生唯一の男子で北条本家の後継者と目されていた政範の死によって、両者の対立が表面化していた。 畠山の乱に端を発した牧氏事件で時政を追放したことにより、幕府は時政の専制政治から義時・政子姉弟主導による寡頭体制によって専制政治が継続された。 鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書『吾妻鏡』において、梶原景時が悪人と断じられているのとは対照的に、重忠は賛美した記事が目立っている。重忠討伐の際、重忠を擁護したという義時は、その後重忠の遺児や縁者を庇護し畠山氏の所領を与えたなどという形跡はなく、畠山氏の所領は政子によって重忠を討った者や政子の女房に配分されている。 義時・政子の姉妹である重忠の妻には畠山氏本領が与えられ、その妻は北条氏の縁戚足利義純に再嫁し、足利義純が畠山氏の名跡を継承した事により、重忠の血筋は断絶している。 その後出家していた重忠の末子重慶は乱の8年後、建保元年(1213年)9月に謀反の疑いを受けて殺害されている。 その際に3代将軍源実朝は「重忠本より過ちなくして誅を被る」と述べている。『吾妻鏡』における義時の重忠擁護、重忠の過剰な賛美記事は、父時政を追放し、武蔵の英雄を滅ぼした義時(得宗家)弁護のための作為と考えられている。 ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。 現在、横浜市旭区、相鉄鶴ケ峰駅の近くには畠山重忠の終焉の地として石碑が建てられている。 その後と影響 時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保3年(1215)、腫物のため北条の地で死去した。 また、牧の方も夫の死後は朝雅の元妻で公卿の権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。 そして、北条氏の第2代執権には義時が就任(ただし、承元3年(1209)就任説もある)、義時のもとで北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのである。 ただし、この事件は、後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての内紛の先駆けにもなった。】 源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱は第3代宇都宮氏当主である。 また第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は武人で奥州藤原氏討伐にも功績があったが、鎌倉幕府から謀反の嫌疑をかけられたのを機に法然に帰依して出家、実信房蓮生と号して京に隠棲して宇都宮歌壇を確立した。 京都嵯峨野の小倉山麓の庵に住まい、その襖色紙には親交があった藤原定家によって選じられた首歌が書かれ、これが小倉百人一首の起源として伝統文化に受け継がれている。 浄土宗を信仰した頼綱は、京常盤、桐生、宇都宮に念仏堂を建立し、現在もそれぞれ入逢山西方寺、梅田山西方寺、芳宮山清巌寺に受け継がれている。 頼綱は幕府から許された後の1215年には園城寺(現在の三井寺)再建に尽力し、その功によって伊予国守護に任じられた(1220~1235)。 鎌倉時代中期、第8代宇都宮貞綱は元寇の際、鎌倉幕府による討伐軍の総大将として九州に赴き、これに勝利すると鎌倉幕府引付衆に任じられた。 貞綱は亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 *「宇都宮 泰綱」(うつのみや やすつな)は、鎌倉時代前・中期の人物。藤原姓宇都宮氏第6代当主。官位は正五位下で下野守、修理亮を歴任。鎌倉御家人でもあり評定衆、美濃国守護に任じられた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年07月02日 06時10分02秒
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