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カテゴリ:中世
成綱の死後、嫡男である18代宇都宮忠綱は強硬な家臣団の支配強化などを行ったために家臣の叛乱を招くことなった。 その結果、大永の内訌が勃発してしまい、宇都宮氏当主の権威は大きく失墜し、大きく弱体化することとなる。 19代宇都宮興綱、20代宇都宮俊綱の頃は宇都宮氏当主は家臣団の傀儡となっていた。 21代宇都宮広綱の時代には、父・宇都宮尚綱が喜連川五月女坂の戦いで那須氏に討ち取られると、宿老壬生綱房・壬生綱雄父子に宇都宮城を乗っ取られ、下克上されてしまう。 この窮地を重臣芳賀高定が救い、1557年には北条氏康や佐竹義昭らの協力を得て宇都宮城を奪還することに成功している。その後は、上杉謙信や佐竹義重らとともに、古河府足利氏の弱体化に伴って関東に台頭した北条氏と対峙した。 広綱は佐竹義昭の娘・南呂院を娶り、佐竹氏との関係を強化した。22代宇都宮国綱は防衛に向かない宇都宮城を家臣へ任せ、過激化する北条氏や壬生氏、那須氏、皆川氏の攻撃に耐えられるよう、多気山城を北関東最大規模の山城へと改修し、そこを新たな本拠とした。 豊臣政権期以降 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃で小田原征伐で北条氏が失墜し、宇都宮氏は下野国18万石の所領を維持した。 国綱は1592年の朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、1597年、突然改易され備前国配流となり、1608年に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死する。 これにより、22代・500年に亘って繁栄した関東の名門・宇都宮氏は歴史の表舞台から去ることとなった。 改易の理由は、太閤検地の為に派遣された浅野長政に石高不正を訴えられたことや、浅野長政の次男・長重と宇都宮家の養子話のこじれがあった等と言われている。 さらに関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に組するのを国綱が拒んだため、大坂の陣による豊臣政権崩壊後も家名の再興は認められなかった。 国綱の子、宇都宮義綱は水戸藩・徳川頼房に仕え、子の宇都宮隆綱は家老に取り立てられた。以降、子孫は水戸藩士として江戸時代を過ごし、明治維新を迎えた。 傍系として、常陸国守護小田氏や、三河国の出身で江戸時代には徳川家譜代大名として小田原を治めた大久保氏が祖と仰ぐ武茂氏がいる。 宇都宮氏庶流(豊前、筑後、伊予) 宇都宮庶流としては藤原宗円の次子である中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として赴任したことが豊前宇都宮氏の始まりといわれる。その子、宇都宮信房は豊前守に任じられて九州豊前国に下り、一時期は築城郡の本城城を拠点として、宇佐、筑城、下毛、仲津、田川など各郡に庶家を配し、その子の宇都宮景房は九州平定の功により、景房の子の宇都宮信景は源頼朝から、幕府評定衆、九州四奉行に任じられ、九州の武士を統括したこともあった。 豊前宇都宮氏7代宇都宮冬綱(城井冬綱)が城井氏の祖となる。 また宇都宮庶流としては、筑後国に勢威を張った筑後宇都宮氏が知られる。宇都宮氏第8代(宇都宮朝綱を初代とすれば第6代)当主宇都宮貞綱(元寇の時に討伐軍総大将)とともに九州に同行し、筑後国山門郡大木を拠点とした貞綱の弟である宇都宮泰宗の子孫が直接の始祖である。 すなわち、泰宗の子の宇都宮貞泰は、南北朝時代に四国伊予国に勢力を保ち、南朝の懐良親王と共に城井氏の拠点の豊前国仲津に移ったが、北朝方の豊前宇都宮氏に対して、南朝方で肥後国八代に移った宇都宮貞泰の次男の宇都宮貞久が始まりとされる。 この貞久の孫の宇都宮久憲が筑後十五城筆頭の宇都宮氏系蒲池氏の祖となる。 また、四国伊予国の伊予宇都宮氏は伊予守に任じられた宇都宮豊房が始祖である。 豊房は豊前宇都宮氏7代となった宇都宮冬綱(城井冬綱)の弟であった。ちなみに、冬綱は宇都宮氏第9代当主宇都宮公綱の弟である。豊房には子がなく、宇都宮貞泰の四男の宇都宮宗泰が継ぐ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年07月02日 08時10分08秒
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