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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年07月05日
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カテゴリ:江戸時代




7、「村松藩と堀氏」


堀直政(奥田直政)は、尾張中島郡奥田庄にて、奥田直純の子として生まれる。従弟の堀秀政の家老となり、堀姓を与えられた。上杉景勝に代わり秀政の子・秀治を越後へ移す際、甘粕景持に替って三条城の城主となる。


直政の長男・直清は父から受け継いだ三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。


ところが慶長15年(1610年)、僧侶殺害を弟・直寄(堀直政の次男)が徳川家康に訴えたため直清は改易され、越後福島藩主で秀治の 嫡男・堀忠俊も磐城平藩・鳥居忠政へお預けとなった。


しかし、直寄自身も1万石減封で信濃飯山藩4万石に転封された(越後福嶋騒動)。


その後、直寄は長岡8万石から村上10万石(実高17万石とも)に転封となり、さらに3万石を加増される。


加増分は直寄の次男・直時が分与され安田藩を立てる。村上藩は、直寄の長男・直次が寛永15年(1638年)に父に先立って死去した。


翌年には父・直寄も亡くなり直次の長男でわずか4歳の直定が跡を継ぐことになったが、寛永19年(1642年)に夭折し、村上藩堀家(直政系嫡流)は断絶した。


堀直時は本家の村上藩が断絶・所領召し上げとなった後も、安田藩3万石の領有を認められた。


本家の遺臣らにより村上の遺領相続を願い出たが、幕府からは認められなかった。


寛永21年(1644)5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えと城主格への昇進が行なわれて、安田陣屋から村松城に移したことから、正式な村松藩が始まった。


「村松藩と堀氏」(むらまつはん)は、越後国蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。


村松藩は寛永16年(1639)、堀直寄の次男・堀直時が安田3万石を与えられたことから始まる。


寛永21年(1644)5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えが行なわれて陣屋を安田から村松に移したことから、正式な村松藩が始まった。


村松藩はその所領の大半が山間地であったため、新田開発を成しても石高の伸びは少なく、貞享4年(壱千六百八拾七)では実質的な石高は4万石だったと言われている。


第2代藩主・直吉は領内に検地を実施して、藩政支配を確立した。しかし直吉の死後から財政悪化が表面化していったため、しばしば藩政改革が行なわれたが効果はなかった。


しかも第8代藩主・堀直庸の代には、家老の堀玄蕃を中心と して財政改革という名目での百姓からの収奪が行なわれたため、文化11年(1814)には村松藩全土で百姓一揆が勃発した。


第9代藩主・堀直央の時代である嘉永3年(1850)2月に城主格が与えられ、村松陣屋は城に改修されることとなった。


直央は嘉永6年(1853)から藩政の主導権を掌握して藩政改革に取り組み村松縞をはじめとする織物・紙・筆・茶そして村松焼などの生産を奨励し、産業の振興を図ったが、万延元年(1860)に直央の跡を継いで藩主となっていた堀直休が7月12日に、直央も9月6日に死去してしまったため、改革は頓挫した。


幕末期、村松藩内では尊王論が台頭し、尊王攘夷と軍制改革を主張する一派と対立し、慶応2年(186611月に村松七士事件(尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)が起こるなど、藩内は大混乱を極めた。このため戊辰戦争に際して、新政府に与するべきと主張する正義党の近藤安五郎を中心とした一派と、第11代藩主・堀直賀を中心とした保守的な佐幕派に藩論が分裂した。


藩主らが奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れると、安五郎は第9代藩主・直央の末子に当たる堀直弘を新藩主として擁立して即座に新政府に降伏したため、村松藩は所領を安堵された。


明治4年(1871)の廃藩置県により村松県となり、同年末には新潟県に吸収された。


「堀 直時」(ほり なおとき)は、越後安田藩(村松藩)の初代藩主。直寄系支流堀家初代。


元和2年(1616年)、信濃飯山藩主・堀直寄の次男として生まれる。


寛永16年(1639)、父の死去に際し、3万石を分与されて大名となり、安田藩を立藩した。


寛永19年(1642)、甥の直定が早世して本家の村上藩が断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎに擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年12月、従五位下、丹後守に叙任する。


寛永20年(1643年)2月29日に死去。享年28。跡を次男の直吉が継いだ。


「堀 直利」(ほり なおとし、明暦4年1658享保元年10171626))は、越後村松藩の第3代藩主。直寄系支流堀家3代。


第2代藩主・堀直吉の次男。母は堀直清の娘。正室は戸田光永の娘。子は堀直道(長男)、堀直為(次男)、堀直英(三男)、酒井忠刻(四男)、娘(成瀬正幸正室)、娘(福原資祇正室)。官位は従五位下、左京亮丹後守。


延宝4年(1676)、父の死去により家督を相続した。宝永2年(1705)、奏者番寺社奉行に就任した。


正徳元年(1711)、廃嫡した長男・直道に代わって世子となっていた次男・直為に家督を譲り隠居した。享保元年(1716年)に死去した。






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最終更新日  2024年07月05日 07時36分45秒
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