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カテゴリ:中世
尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった。 正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した。享年54(満52歳没)。 『後深心院関白記』によると延文3年(1358年)5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が真如寺 (京都市) で行われたとあり、5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は、等持院において行われたことがわかる。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。 そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫の義満が生まれている。 性格 尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった夢窓疎石が次の3点から説明している(『梅松論』)。 1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。 2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。 3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。 1つ目の戦場での勇猛さだが、ある戦場で矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと、「やはり」尊氏は笑って取り合わなかったという。『源威集』でも、文和4年(1355年)の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は「例の笑み」を浮かべ、「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え全く動揺することがなかった、という。『源威集』の著者は「たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がない」と尊氏の胆力を褒めちぎっている。 2つ目の敵への寛容さも、畠山国清や斯波高経など一度敵方に走ったものでも、尊氏は降参すればこれを許容し、幕閣に迎えている。 3つ目の部下への気前の良さは、『梅松論』にある八朔の逸話によって窺い知ることができる。当時、旧暦の8月1日に贈答しあう風習が流行し、尊氏のもとには山のように贈り物が届けられた。しかし、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、結局その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかったという。 こうした姿勢は戦場でも同様で、尊氏は戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束するかな書きの下文(「軍陣の下文」と呼ばれる)を、相手に直接与えている。 これは、すでに権利者のいる所領を再び別人に与えてしまう事例も発生し、後の史料には100年先まで紛争の種となり、尊氏の子孫たちを悩ましている例すらある(「御 前落居記録」第18項)。それでも、戦場の下文がもつ即時性の効果は大きかった。また、佩用していた腰刀を直接家臣二人に与えた例や、自身が所用する軍扇[5] を与えたこともある。 こうした鷹揚で無頓着な尊氏を見聞きした家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」といい(『梅松論』)、これが尊氏最大の人間的魅力だった。 しかしながら『梅松論』には、尊氏は合戦で苦戦した際、すぐ切腹すると言い出し周囲を慌てさせたり、後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やみ、一時は出家を宣言してしまうなどの記述もある。 尊氏は正月の書き初めで、毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いたと伝えられる。 歴史の表舞台に立った尊氏は、その性格ゆえに周囲の動向に振り回され傷つき、また自身も無意識に周囲を傷つけてしまう苦悩を背負うこととなった。 また、正室であった赤橋登子所生(義詮・基氏・鶴王)以外の子に対して冷淡であったかのような見方がされているが、谷口研吾によればこれは正室である登子の意向によるものであり、その背景として実家(赤橋流北条氏)という後ろ盾を失った彼女が自身とその子供たちを守るために他の女性の子供を排除せざるを得なかったからとする。 二頭政治か否か 観応の擾乱前の室町幕府の政治体制については、幕府の九州探題(九州方面軍総指揮官)を務めた今川了俊の『難太平記』に、世人は尊氏を「弓矢の将軍」と称し、直義は「政道」を任されたとあることから、一般に、擾乱前は、軍事を担当とする足利尊氏と政治を担当する足利直義の二頭政治が取られていたという理解が定説となっている。 第二次世界大戦後、佐藤進一はこの説をさらに深化させ、尊氏は主従制的支配権(人を支配する権限)を、直義は統治的支配権(領域を支配する権限)を持っており、質的差異があったのではないか、と指摘した。 しかし、21世紀に入り、呉座勇一は、実際のところ幕府の運営のほとんどは直義を実質の最高権力者として行われており、「二頭政治」という呼び方では、両者の権限が拮抗していたかのような誤解を与えるのではないか、『難太平記』のも両者の関係にほころびが生じてからの描写であり、平時のものとは言い難い、と指摘した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年07月07日 12時24分25秒
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